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An illustration of Hananuruko by JEREMY STEIG何でこうなの?日本の英語教育

2014年1月 中学3年間義務教育の英語

安倍政権が日本人の英語力の向上の目的とする「グローバル人材の開発」とは一体?これ、安倍首相の言う「美しい日本」と同じく非常に曖昧な表現だ。例えば、連続殺人犯にとっては、「血しぶき」が「美しい」のだろうし(最近NYに住んでいた頃見ていた『デクスター~警察官は殺人鬼』の最終回がやっと日本で放映された!!え~、デボラ死んじゃうの~?)、と考えると、この「グローバル」の定義も怪しい。こんな目的で、具体的にどんな風に日本人の子供たちに英語を教えるか、その方向が定まるとは思えない。

教育改革、というくらいだから、日本の学校で使われている英語の教科書は、これからどんどん変わってゆくだろうが、では、現在使われている教科書はそんなにダメなのか?日本で英語を教えるネイティブの教師には、教科書を全部ESL(English as a Second Language) のテキストにするべきという意見の人もいる。(私はこれまで一度もESLの先生に教わったことがないし、その教科書も使ったことがない。)

そこで、東京に住む友人の公立中学に通うお嬢さんが使っているという英語の教科書(中学1年~3年)と、私が通っていた神奈川県立高校で現在使われている教科書5冊の合計8冊、および県内の高校で使われている英会話の教科書を2冊購入して読んでみた。

現在、日本で読み書きを含む本格的な英語教育が公立学校で始まるのは、中学1年。これは私の頃(1980年代初頭)と同じ。4年制大学も含めると、今後10年間、教科として課せられるのだから、その最初の教科書は、子供たちに「なぜ英語は必修なのか」示すのが当然だろう。で、中1の教科書の1ページ目を開けると、

 「地球という舞台で学ぶことは、可能性を広げること

  かかわることは認め合うこと

  言葉を使うことは思いを伝えること」

とある。この文言は、中学3年の教科書まで同様に冒頭に記されている。この見開きには、この文言と共に、世界各国の中学生くらいの子供たちが、スポーツや勉強をしていたり、コンピューターや携帯電話を使ったりしているカラフルな写真と世界地図の輪郭が印刷されている。中3の教科書では、各国語により「こんにちは」という言葉も印刷されている。

 これを読んで、ある中学1年生は、

「なんで日本なんかに生まれたんだろう。日本語は日本でしか通じない。米国、英国、オーストラリアで生まれていれば、こんな勉強しなくてすんだのに」と考える。また、ある生徒は、

「うへえ、この教科書の内容をマスターすれば、将来世界中のどこでも学校へ行ったり、仕事したりできるかも!」と考える。

教える先生にしてみれば、生徒がどちらのタイプでも、責任は重い。

日本には、英語を全く使わずに生活する人がたくさんいる。生徒が前者のタイプの場合、もともと英語は「役に立たない教科」で、おそらく死ぬまで使わないであろう言葉を今後3年間、延々と学習しなければならない。その時間を使って本当に興味ある他の教科を勉強できるのに。アメリカにも英語以外の言葉を全く使わずに一生を終える人が大勢いる。1950年代後期、ジェレミーが通っていたニューヨークの高校では、スペイン語かフランス語の選択があり、彼はフランス語を学んだそうだが、「海外なんて行くと思っていなかった」から、全然真面目に勉強しなかったそうだ。日本の中学生が英語学習を無意味だと感じるのも別に不思議ではない。一方、一生島国日本にとどまりたくないタイプの人にとって、英語は非常に役立つ。

入学当初から英語に興味のある生徒の場合、これから3冊の教科書を使って勉強しても、3年後、「英ペラの15歳」にはおそらくならない。先生もそれをわかっている。私の時代もそうだった。実は、私の中1の英語の先生(日本人。ベルギーの大使館で仕事をしていたことのある人だった。)は、中学校の英語の勉強を終えても英語を話せるようにはならない、と認めた。一度、友だちと訊いてみたのだ。もしこの状況が変わったのであれば、日本中の書店から「英語力向上」関連の無数の印刷物は姿を消しているはずだし、英会話教室もどんどん倒産しているはずだ。しかし、現実は反対である。つまり、中学校の英語教師は、3年間も、生徒に叶わぬ夢をみさせ続けることになる。

そして、卒業式の日がやって来た…としよう。え?もう?

この生徒は卒業証書をもらい、ウチへ向かって歩いている。道の両側に商店が建ち並ぶ歩道のない道。と、正面からジェレミーがこちらへ歩いて来た。白人男性を見たこの中学生は、思う。「あ、外国人だ」と。あれ?その後ろから、かなりのスピードで自転車に乗った日本人のおばさんが進んで来た。それを知らないジェレミーは、道の反対側にある行きつけのパン屋に入ろうと斜めに横切り始めた。あ、自転車と衝突する!と思った中学生は、咄嗟にどうする?

日本人は、日本で白人に会うととその人が日本語を理解することを期待しない。そして、英語で話しかけることを考える。この中学生もおそらくそうだろう。しかし、こんな突然の危機に、一体何と言えばよいのだ!

そしてこの中学生は、固まってしまう。自分は何もできないまま、自転車とジェレミーが目の前で接触してしまい、見て見ぬふりをして、打撲と擦り傷のジェレミーとおばさん、そして倒れた自転車の横を通り過ぎる…。そして、おばさんがジェレミーに「アイム・ソーリー」と英語で言い、ジェレミーが「だいじょうぶです!」と日本語で答えているのを耳にし、絶句する…

実は、この「ジェレミーを無事パン屋へ行かせる」ためのシミュレーションは、ただの笑い話ではない。

まず、多くの日本人は、ジェレミーと会うと、ここが日本であるにもかかわらず、とにかく英語で話そうとする。年配の英語が全く話せない人の場合は、じっとジェレミーの顔を見て、何も言おうとしない。専ら隣にいる私に日本語で話し、通訳してもらうのを待っている。日本には、外国人、特に白人には、自分たちから英語を話すものだと思っている人が多い。

次に、多くの日本人が海外旅行で経験するように、いざ英語を話すべきが来ると、最初の一語が出てこない。

そして、これは多くの日本人の特徴と言えると思うのだが、自分以外の日本人が外国語(特に英語)を話すのを見ると、話せない自分と比べてしまい、自分から何も(日本語でも)話そうとしなくなる。

しかし、実のところ「ジェレミーがパン屋へ無事たどり着く」のは簡単なことだ。

まず、この卒業式帰りの中学生は、英語を使う必要など全くない。彼は、危険を察知した瞬間、「自転車!」と日本語で叫べばよいだけなのだ。日本に3年以上住んでいるジェレミーは、当然「自転車」という言葉を知っている。この中学生が固まってしまった理由は、おそらく、咄嗟に日本語で思い浮かんだ言葉が、頭の中で英語に翻訳できなかったからだろう。こういう状況のとき、日本人なら「危ない!」と叫ぶだろう。これは直訳すると“Dangerous!”とか“Danger!”となる。

で、私が買った中学校の教科書を見ると、この2つの単語は1年生の新出単語としてリストされている。だから、卒業したての中学生の頭には記憶されているはずだが、日本の英語教育では知識を実用する機会がとても少ないので、大きな声で英語を発することができない生徒が多い。

仮にこの中学生がこの直訳語を咄嗟に言えたとしよう。それでもジェレミーはやはり自転車と衝突してしまう。この場合の「危ない」は、英語では“Dangerous”ではないからだ。もし“Dangerous”という言葉が聞こえても、ジェレミーはどこから「危険」が迫っているのかわからない。この場合、“Behind you!”(直訳すると「あなたの後ろ」)と言われれば、ジェレミーは道の端に寄ることができて衝突は避けられる。

で、再び教科書を見ると、“you”という単語は1年目に出てくるが、“behind”という単語がどこにも出てこない。詳しく読んでいくと、まず、「どこですか」という “Where is---?”は、1年生の教科書に9回出てくる「日常的に交わされる表現を学ぶセクション」の3回目に出てくる。しかし、そこでは、in, on , underしか触れていない。さらに21ページめくった後の5回目に「誰のですか」という “Whose is this?”というレッスンがあり、そこに “next to”という表現が紛れ込んでいる。そして、翌年使う2年生の教科書に、「さまざまな前置詞(Various prepositions)」というイラスト付きのセクションがあり、そこでは、on, in, at, near, around, underという6つの単語が説明されている。赤いボールが箱の中や上に置いてある絵があり、“A red ball is on the box.”とか、“A red ball is in the box.”という例文が書かれている。しかし、この位置関係を教えるセクションに、なぜか、「箱の前(in front of the box)」と「箱の後ろ(behind the box)」というのが無い。なんで?こんなの、何年にも分けて覚えるより全部一度に覚えた方がよいに決まっている。

実は、「前」という単語は、翌年の3年生の教科書で初めて出てくる。マーティン・ルーサー・キング牧師とローザ・パークスについてのチャプターの中で、 “Dr. King later made a speech in front of the Lincoln Memorial.”というのがある。しかし、「後ろ」という言葉はそこにも出てこない。

で、高校1年生の教科書の単語リストを見てみると、“behind”が出ていて、それは「中学既習」となっている。

「なーに、当たり前じゃないか。教科書はあくまでカリキュラムの基礎になるもので、実際の授業では、英語の先生がいろんな補助知識を与えるものだ。Behindもそういう単語の一つだよ」。それなら、やはり、中1で全部まとめて教えるのが生徒のため、と考えるのが自然でしょ?それに何で「前」を教科書に載せて「後ろ」を載せないわけ?これらの教科書は、約40人の大学教授たちによって書かれている。そのうち2名は、ネイティブ・スピーカーと思われる外国人の先生だ。こういう単語のリストを作るとき、どうやって決めているのだろう。もしかして多数決?

ジェレミーが使っている成人用の日本語初級の教科書を見ると、基本的表現や文法を学ぶレッスンが22課あり、その8課目で、「どこ」という言葉を学ぶ。その課の中で、「となり」、「前」、「後ろ」、「上」、「下」、「中」をまとめて学べる形の練習問題が出ている。ちなみに、この教科書の著者は5人の日本人女性。また、ニューヨークで購入した英語で書かれた「Read & Speak Japanese for Beginners」のテキストの場合も、8課あるレッスンのうち、4課目で同じく上の6つの位置関係を表す言葉をまとめて学ぶ形になっている。この教科書の著者は2人の米国人女性である。

中学校は、成人の実践的な言語学習教室とは異なり別の目的がある。だからこんな比較は値しないのかいな?でも、外国語の「使えない知識」なんて、中学生にとっても意味がない。おまけに義務教育なのだ。嫌でもやらなければならないのであれば、普段使う言葉をすぐに使えるように教えるのが当然だ。

卒業式の帰り道のジェレミー事件の後、英語を流暢に話す可能性を持ったやる気のある生徒は、「日本で外国人一人さえ助けることができないんじゃ、海外なんてとてもムリだ…」と失望してしまう。義務教育3年間の英語は誰の役にも立ってない。

こりゃ一体どういうこっちゃ? 3年間英語を勉強したのだ。ジェレミーが通りを渡ってクロワッサンを買える、せめてそのくらいの英語はできなくちゃ。

2014年2月 何でこんなに変わらない?

2012年6月、私が30年前に通っていた横浜市内の国立中学校の中学1年と2年の英語の授業を見学する機会があった。日本に帰国して、職安に行って仕事を探していたら、横浜市内の中学校の放課後の英語の補習クラスを手伝う講師の募集があったので、電話してみると、「東日本大震災の被災者向けの短期の仕事なので、被災者以外は応募できない」ということであった。どちらにしても市内の中学でこうしたニーズがあることがわかった。

現在、我が家は偶然私の母校の近くにある。そこで、私は校長宛に手紙を書き、もし私の後輩にも英語学習にヘルプが必要な生徒がいたら、ボランティアで週1回でも是非お手伝いしたい、と申し出てみた。気軽にテスト前の質問をしたり、英会話の練習をしたりできる「近所のバイリンガルおばさんで同じ学校の先輩」的な存在になれれば、と書いた。すると、数週間経ってから副校長から電話があり、一度お会いしたい、とのことだったので出かけた。

校長室には、校長、副校長と、主任の先生(全員男性)がいて、まず、校長が、「我が中学で、過去、ボランティアで何かを申し出た人はあなたが初めてだと思う」と言った。それから校長は、「実際にどのような形でできるか検討する」とか、「今度一緒にランチでもして詳しく話を」とか言った。また、「英語についてのみ講師を受け入れると、英語の先生の顔をつぶすことになる」とも言った。私の手紙には、これまで受験した英検、TOEFL、TOEIC等の成績も書いておいたので、校長は「すばらしい成績で…」と言いつつも、私が「教師の資格」を持っていないことを確認し、黙ってしまった。

次に、主任の先生が、「ボランティアの先輩が放課後自習を手伝ってくれる、となれば、まず、生徒たちは塾の宿題を持って来るだろう」と言った。次に、「生徒の親御さんたちが、中間テストや期末テストの採点に納得がいかない場合、あなたを味方にして、正規の教師に抗議しようとするだろう」と続けた。校長が「卒業生によるボランティアが今まで一度もなかった」と話した直後に、まるで予言者のような発言だなぁ、と私は思った。

自分が教えている生徒や生徒の親を信用できない主任も気の毒だと思ったが、既にこの会合の前に「私の申し出を断る」という結論が出ていたことは明らかだった。それならなぜ私を呼んだのだろう?

「そういうことでしたら、先生方のご迷惑になるだけなので、やめましょう」と私は言った。

すると彼らは急に安心したようで、

「じゃ、折角だから、今、英語の授業をいくつか見学させてあげましょう」となった。

この時本当に驚いたのが、私が在学中の頃と、教室の中の雰囲気がまったく変わっていないことだった。まず、相変わらず子供たちは黒板に向かって縦数列に座っていた。私は、お互いの顔が見える車座になっているだろうと期待していたが、甘かった。そして、子供たちは、教科書に顔を埋め、先生に指名されるまで自分の口から英語を発しない。基本はダンマリだった。

先生は20代後半から30代前半くらいの男性と女性で、生徒に対し英語を話す努力をしてはいたが、彼らの発音には英語のリズムがなかった。

校長先生は、「生徒一人ひとりに教室内でコンピューター端末を支給し、オーディオ・ビジュアルを駆使した英語教育を始める国の計画があり、その支給対象の全国100校に選ばれた」と誇らしげだったが、パソコンやら携帯なんてものは自宅にも学校にも存在しない時代に英語を勉強した私にすれば、「それがなんじゃい」というのが正直な感想だ。教室内にはそのコンピューター導入のために関係機関から派遣された調査員の女性がいた。ところで、文部科学省は、インターネットを長時間使う子供は学校の成績が悪い、と最近発表しなかったっけ?

帰る前に正面玄関の外で副校長先生と立ち話になり、尋ねたところ、「あの2人の英語の先生は海外留学の経験は無い」と言った。

 「なぜ、学校の授業ってあんなに変わらないんでしょうかね」と私が尋ねると、副校長先生も「自分も、なんでこんなに変わらないんだろうといつも思う」と首をかしげておられた。

副校長先生は、もし英語補習ボランティアが実現すれば、日本へ戻って英会話の機会が減っている帰国子女の生徒たちの練習相手にもなる、と言った。また、英語を使って何でも好きなことをする方が、言葉が早く身につく、とも言ったが、「近所のバイリンガルおばさん」を迎え入れる体制は「存在しない」ということだった。

英語を普段から使っている普通の日本人は、学校から閉め出され、ご本人たちは普段の生活で英語を使わない教師たちが英語を「教科」として教える、という構図は相変わらずだ。

米国では、英語をLingua Franca(リングア・フランカ=英語を母国語としない人の共通語)として外国から来た人に教える。ニューヨークでは、母国語は英語ではないが英語を話す人が日常的に周りに存在した。10歳まで祖国ルーマニアでルーマニア語を話していたが、米国へ移住し、素晴らしいESLの先生に出会い、英語をマスターしたという銀行員。(彼の英語を聞くと英語のネイティブスピーカーと全く変わらない。)南米から移住し、同国人の妻とはスペイン語で会話するが、米国生まれの息子たちとは英語で会話する人、チャイナタウンに住み、妻、娘、自分の会社の社員とは広東語で話すが、顧客との会話は簡単な英語である漢方医など。以前英国の植民地だったインドでは、多くの人が自国語に加え英語を話す。発音は強いインド訛りの人が多いが、容易に聞き取れる。これらの国々では、話している側に流暢さや完ぺきさを求めない形で英語が話されているといえる。

日本の英語教育は、英語をLingua Francaとして教えているのだろうか。日本人が海外に出た時、多くの場合、英語を母国語としない人々と英語を話すことになる。Lingua Francaとして教えるのであれば、海外における共通語として英語を使った経験のある日本人を教育現場でも活かすべきだろう。

どちらにしても、私を母校の英語の先生に一人も会わせてくれなかったのは馬鹿げている、と思う。中学の先生ってそんなに偉いのか?

ところで、日本の学校では、英語以外の教科も似たような雰囲気の教室で教えられる。授業中、活発なやりとりはあまり起こらない。だから、学校教育そのものが変わるべきなのだろうが、英語の授業が特に注目される理由は、おそらく、「何年勉強しても生徒たちが英語を話せるようにならない」とか、「日本人のTOEFLやTOEICの平均点が他のアジアの国に比べて低い」という「明らかな失敗」が目の前にあるからだろう。私個人としては、「8月6日は何の日」であるかわからないとか、「特攻隊」という言葉を初めて聞くとかいう高校生をテレビで見ると、英語より歴史の授業に大きな問題があると思うが、歴史の先生の教え方が悪い、という話は滅多に聞かない。

2014年3月 英語を強いるなら正しい方法で?

米国の占領下にあった戦後の日本では、中国語やロシア語ではなく英語が普及したのだが、英語が義務教育の外国語である理由を今の時代の実用面から考えると、「日本人にとって最も身近だから(テレビや広告における英語の氾濫)」。そして「最も学びやすいから」。さらに、もっと現実的に言えば、英語以外の外国語を教えることができる日本人教師の数が全然足りないからだろう。また、安倍政権が今後3年も続くことを考えると、中国語や韓国語が義務教育で学ぶ外国語になるのはまだまだ先のことになりそう。

統計によると、横浜市には中国人が33600人、韓国人も14900人(平成23年度末)住んでいるが、アメリカ人の人口は2360人。実は、この数はフィリピン人、ブラジル人、ベトナム人の数よりも少ない。道を歩いていて中国人や韓国人とすれ違う可能性は、それぞれアメリカ人の約15倍または6倍ということだ。こう考えると、横浜の中学校では中国語や韓国語を教える方が理にかなっていると思う。

さて、英語の話に戻ろう。「英語は難しい」と言う日本人は多いが、そうだろうか。ジェレミーが日本語を学ぶのを見ていると、やはり「初級英語は簡単」だと思う。まず、文字が26個しかない。次に、入門レベルで使う簡単な英語はシンプルに教えることが可能だ。疑問詞だって「どこ」も「どこで」も「どこに」も「どこへ」もすべて“where”である。モノの数をかぞえるときも、日本語では、車は「何台」、鳥は「何羽」、木は「何本」、動物は「何匹」と、やたら複雑である。「1個、2個」も「ひとつ、ふたつ」と言い換えたがる。英語なら数字の読み方を教えて、名詞の終わりに複数を意味する「S」をつければ終わりだ。

それに、例えばこんなことも考える。

「2匹の猫が歩いている」を英語で言えば、 “Two cats are walking.”
しかし、日本語では「猫が2匹歩いている」とも言う。
ペットショップで、「猫2匹ください」は、 “Please give me two cats.”
「2匹の猫をください」という日本人は滅多にいないだろう。

英語では、“two cats”は、あくまでそのままなのに対し、日本語は、「猫」と「2匹」の語順がごちゃごちゃと入れ替わる。

次にこんなことも考える。
「お母さんにプレゼントをもらいました」は、 “I got a present from my mother.”
「お母さんに手紙を送りました」は、 “I sent a letter to my mother.”
つまり、「お母さんに」の「に」という助詞が、「~から」という前置詞 “from”と、「~へ」という前置詞“to”という、全く反対の意味を示していることになる。こういうのもジェレミーを含む外国人にとって非常にわかりにくい。

普段からこんなに複雑な日本語を平気で使っている日本人の子供たちにとって、初級の英語は「単純明快」なはず。正しく勉強すれば。

だから、中学生の教科書では、この「覚えやすい、簡単な言葉」であるという英語の特徴を強調した内容になっているのが一番良いと思う。それが最も端的にわかる方法は、「教科書が薄い」こと。しかし、私が購入したシリーズは、中1から中3まで、一冊につき143ページもある。自分の頭の中で英文を組み立て、相手と会話するようになるための第一歩は、教科書から目を上げて話し相手の顔を見ることだ。こんなに大きくて厚い教科書を与えるのは、子供が自転車に乗る練習しているときに、親が補助車輪をどんどん増やしているようなもの。日本人が英会話の勉強のために本屋でハウツー本を何冊も買うのと同じ。

実は、この大判で厚い教科書を見た私の印象は、「私たちの頃と全然ちがう!」だった。絵が多いので、一瞬、マンガ本かと思った。巻末を見ると、なんと、どの教科書も12~13人の挿絵およびイラスト担当者の名前が列挙してある。写真も全部カラーだ。これでは、子供たちの目を教科書に釘付けにすることを目的としているかのよう。

5ページ目に、「教科書のしくみ」が説明してある。これもすごいのだ。中で繰り返し使われる23個のアイコンの意味が事細かに書かれている。例えば、星のマークの「ポイント」は、そのページで覚えたい文型を示す。グリーンの文字の「アイデアボックス」は、役に立つ追加的な語句が紹介されているセクション。また、「トライ」は、より深い理解のために選択して行う活動を意味する。これって、教師用ガイドブック?

私が中学生で、このページを見たら、こう考えるだろう。まず、「ポイント」の部分は絶対に期末テストに出るのでとりあえず全部暗記しよう。次に「アイデアボックス」は、自分で辞書を引いて関連単語を学ぶ手間を省くセクション。「トライ」は、興味のある生徒のためのオプションなので、テストの成績には関係ないから真面目にやんなくてよい。

みなさんは?

各課の本文よりかなり小さい文字サイズで印刷されているこれら「しくみ」の説明は、生徒の親のためのページなのだろうか、とも思う。説明の中に「英語を書く力を育てるコーナーです」とか、「複数の技能を連携させて扱っている活動です」とか、そんな言い回しがある。13歳の子供にこのような情報を見せる必要ある?

余計な情報といえば、中1の教科書に、英単語の意味を調べるときは、付録の「単語の意味」のページを使うことを教えるページがある。そしてさらに21ページめくった所に、今度は「辞書で単語の意味を調べる」というページがある。ン?

単語リストなんか教科書に付けず、最初から辞書を引く習慣をつけさせるのが一番合理的だ。よく見ると、教科書の付録単語リストには、授業で習う意味だけが掲載されている。例文もほとんど載っていない。中1の教科書に単語リストを載せれば、生徒は怠けるだけだ。あとで本物の辞書を引く習慣がつきにくくなる。

紙に印刷された辞書を引くと、目的の単語の周囲に印刷されている他の単語も目に入る。調べようとした動詞の名詞形なども頭に入る。義務教育の英語の教科書に単語リストを付けておきながら、数年後大学生や社会人になった彼らにTOEFLやTOEICで高得点をあげよ、というのは英語を教える側の大きな矛盾だ。

友人に横浜の中学に通っている子供さんの親御さんがいて、その人に訊いてみると、「あー、うちの子、全然辞書は引かないね。最近の子は、自分で調べるってことをしないからね」と言った。
「お嬢さん、英語を話すようになった?」という質問に、彼女は、
「まだ」と答えた。

中学3年間で覚える英単語は1000語から1200語。これでは英字新聞の三面記事も満足に読めないだろう。中学生の段階では、とにかくどんな新しい単語も吸収すべき時期なのだ。そうしないと、退屈な教科書英語の中でしか英語を体験できない。

私の中学生の頃を思い出してみると、自宅にあった日本の文学全集を読んでいた。小学校の頃は、子供用に書かれた偉人の伝記などを読んでいた記憶があるが、中学に入って夏目漱石、島崎藤村、三島由紀夫、芥川龍之介、太宰治、森鴎外など国語の教科書にも出てくる作家の小説を読むようになった。五味川純平の『人間の条件』など、長編にも挑戦するようになった。それと同時に、中学2年の時、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を野崎孝氏の日本語訳で読んでえらく気に入ったのをおぼえている。と同時にそれを原文で読んでみたい、と思った。外国語で書かれた本の日本語訳を読んでいることを意識し始めた時期だった。十代の子供はどんどん成長してゆく。彼らの知的レベルとつまらない教科書英語の間のギャップが毎日広がっていく。そして英語にも興味がなくなる。

私も、中学校の英語や高校の教科書が死ぬほどつまらなかった。でも、「ライ麦」の原作は、当時の自分の英語のレベルでは歯が立たたないと思っていたし、学校の図書室に英語の本が無かった。また、当時書店に並ぶ英文のペーパーバックはとても高価だった。

幸運にも、ニューヨークからの帰国子女の友人に、小学生の時テレビで見たことのある『ハーディ・ボーイズ』シリーズの本を借りることができた。ティーンの兄弟探偵が主人公の物語だ。英語も分かり易い。ときどきイラストもある。それに何と言っても推理小説は面白い。筋を具体的にきちんと理解して読まないと犯人を見つけられない。読んで分かるとすごくワクワクした。辞書は何度も引かなければならなかったが、結末が楽しみだから読み続けた。

義務教育で英語を学ぶ日本の中学生は、時間を無駄にしたくなかったら教科書の単語リストや参考書を使った受験英語型の勉強は避けた方がよい。

私の場合、英検1級は大学2年で合格および受賞、そしてアメリカの大学の夏期講座に参加するスカラシップも頂いた。同じ頃受けたTOEFLは、アイビーリーグ大学入学可能レベル、2年前に43歳で初めて受けたみたTOEICは、985点(満点は990点)だった。どの試験も、準備は過去問題集や公式問題集を1~2冊買ってやってみて、どのようなテストなのかチェックしただけだった。

これらのテストは、普段から英語を使っている人が受ければそれなりの成績が出る。しかし、これらのテストで好成績を収めた人が英語を流暢に話すとは限らない。実際、私とジェレミーの知人の中にも、TOEICの成績はかなり優秀なのにラクに英語を話せない人がいる。その中の一人によると、中学時代の英語の先生は年配の日本人男性で、授業では、まず教科書のテキストをネイティブスピーカーが音読したテープを聴かせられ、続いてテープの発音とは似ても似つかない先生の音読のあとに生徒が一文ずつ一斉に音読する、という作業が繰り返されたそうだ。「生徒のほとんどは寝ていましたね」ということであった。また、新聞の記事によると、日本人のビジネスマンから「TOEICで900点以上取っても、実際に海外のビジネスの場では会話の主導権を握ることができない」という不満も聞かれるらしい。

しかし、情けないではないか。中学の3年間、英語の勉強を強いられ、その成果を示すのが多肢選択式試験だけ、というのは。私が買ったTOEICの公式問題集をジェレミーに見せてみた。
「どう?あなたなら何点くらいとれそう?」と訊くと、「たぶん20点ぐらい」と彼。問題をちらっと見ただけで「こんなのやる気にもならない」という感じ。

実際に受験してみた私も、テストが始まるまでの待ち時間が長くて寝てしまいそうになった。試験会場だった大学の教室に着席してから、係員が、カンニング防止のために私以外ほとんどの受験者(約100名)が持参した携帯電話の電源がオフになっているか一人ずつチェックし、ヒヤリングテスト用のスピーカーのテストをし、座った席が寒いという受験者の席替えをし、と延々と待たされた。テスト中も、カンニング防止のために問題用紙にメモを取ることさえ禁止されているのだ。TOEICの成績の有効期間は2年間なので、当日会場に2時間以上拘束されるこのテストを会社や学校に言われて何度も受ける日本人が多数存在する。カンニングをしたくなる気持ちもわかりマス。

とはいえ、こんなテストでズルをして好成績を取ったからと言って何になるのだ。会社の管理職や大学の先生が英語を話せる人たちなら、彼らはTOEICに頼るだろうか?どの部下、生徒が英語ができるかなど、自ら英語で面接を行えば一目瞭然。

 ところで、私はこれらの複数選択肢形式の英語テストの精度にも疑問を持っている。私が英検1級に合格した時も、その後、英検を改善するために協力して欲しい、と言われ、ある日、東京にある語学専門学校へ行き、実験的な英語のテストを受けた。いわば英語教育のモルモットだ。日当は1万円だった。その時、当時の英検には含まれていないタイプのテストをされた。例えば、個別の面接室で英語のラジオ放送を流して聞かされた後、ネイティブスピーカーの質問官がランダムに選んだトピック(私の時は中東情勢についてのニュースだったと記憶している)について質問し、それに英語で答える、とか、あるトピックの内容を英語で簡潔にまとめるとかいったテストがあった。こういうテストの方が選択肢から解答を選ぶ形式よりハッキリと実力が試されると思ったが、当時の1級には含まれていなかった。つまり、当時の英検1級合格はたいしたことではなかったわけだ。ただ、1級の認定証を持っていたので、大学卒業後最初に就職した企業から1ヶ月につき1万円の手当が出た。これにより、英検1級を価値ある資格と考える企業があったことがわかる。しかし、当時、その企業の経営陣に英検1級合格者がいるという話を私は聞かなかった。もし経営陣に合格者がいたなら私の手当は出なかったかもしれない。

私が自分の話す英語に自信が持てるようになったのは、1986年の夏。17歳だった。一歳上の姉が、全額奨学金で交換留学をした翌年、両親がその浮いた金(当時は1ドル250円の時代)で私も1年間アメリカの高校へ留学させてくれた。アメリカの公立高校を卒業後、日本へ帰国する直前の夏休み、各国の交換留学生約20名が西部諸州をまわり、毎晩テントを張ってキャンプする旅に参加した。ある参加学生のホストファミリーであるアメリカ人夫婦が運転する2台のヴァンが移動手段だった。この夫婦には、5歳くらいの娘と3歳くらいの息子がいて、その子たちも一緒に旅をした。ヴァンの中で毎日長時間一緒に過ごし、留学生と子供たちは友だちになった。ある日、給油で車が駐まったとき、その男の子が私のところへ来て、「キミ、一番英語が上手だね(You speak the best English.)」と言った。

あの時はすごく感激した。英語のテストで良い点を取ったことなんかより、その子の一言が私にはずっとステキなご褒美だった。この旅には、西欧や北欧出身の留学生も多数参加しており、彼らはとてもラクに英語を話している様子だった。そういう中で、3歳の子供が私の英語を特に気に入ってくれたのだ。うれしいじゃん。

映画『ボウリング・フォア・コロンバイン』で、歌手のマリリン・マンソンが、「ニキビ面の男は女の子が寝てくれないぞ」とか言ってアメリカ社会は若者にさまざまなプレッシャーをかける」というような話をする場面があるが、「英語が話せないと他国に負ける」とか、TOEICの点数が低いと出世できないぞ」とか言っても、果たしてその効果は?なんか戦々恐々として面白くない。日本人以外のいろんな人と直接話ができることこそ英語を話す一番の楽しみだ。それを若いうちに体験すれば、生徒自身が英語をどのレベルまで身につけたいのか自ら決めることができる。

ちなみに、この高校交換留学についても、私が通っていた神奈川県立高校の英語担当教師に反対された。学校に出向いてその教師と話した私の母は、後年、「あの先生は、留学は大学に入ってからでも遅くないと言ったけど、大学留学の費用は高校交換留学よりずっと多額になるんだからね。あの先生が払ってくれるわけでもないのによく言うと思ったわ」と笑った。当時創立18年目だったその県立高校は、生徒の東大合格者数を増やそうと必死だった。高校で留学すると、そのために帰国後の成績が落ち、難関大学へ進学しにくくなると心配する公立校の先生は多い。私も過去の模擬試験の偏差値を基に東大を受験しろ、と言われたが、行きたい大学ではなかったので断った。

この高校では、他にも興味深い体験をした。1年生のとき、英語担当教師に言われて神奈川県高校英語弁論大会に出場した。これは米国へ留学する前のことである。スピーチの練習方法は、2年生や3年生の教室へ授業中に突然連れて行かれて、黒板の前に立ち、ポカンとした表情で私の方を見ている先輩たちに向かって3分間のスピーチをするというものだった。本番の成績は第2位だった。これはその高校としては初めてのことで、結果は新聞の地方欄にも載っていた。大会の翌日登校すると、クラスメートが感心していたのは、私が3位の名門私立女子高校の生徒より上位であったということだった。1位をとったのも名門私立男子校の生徒だった。クラスメートたちは、日本人の英語教師しかいない公立校の生徒である私が、英語のネイティブスピーカーである外国人の先生の授業を受けることができる私立の生徒と互角に戦ったということに驚いていたのだ。

現在は、公立校でもネイティブスピーカーの教師やアシスタントが教えているが、中学、高校と公立校に通う生徒たちの英語を使う力が、当時より目に見えて高まってはいないようだ。つまり、私のクラスメートの「英語は学校でネイティブスピーカーの教師に教わらなければダメだ」という考え方は間違っていたことになる。

私は中学時代も高校時代も部活に入っていなかった。土日も返上して学校でスポーツを練習することや、何でも先輩の言うとおりにしなければならないことが自分の性格に合わないと思ったので、初めから部活には興味がなかった。学校にいるのは授業の時間のみで、あとは家に帰ってラジオで好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、映画館で映画を観たりした。80年代は英国ポップスの全盛で、英語の歌詞を繰り返し聴き、書き取っては一緒に口ずさんでいた。つまり、部活に入っていたクラスメートが日本語を使って過ごした毎日の時間を、私は英語の世界で過ごしていたことになる。

私の中学時代は、今のようにテレビの2カ国語放送や字幕放送は存在せず、ラジオ英語教育番組も、NHKの基礎英語、続基礎英語、英語会話の3種類しかなかった。私は、米国へ行くまで、毎日20分のプログラムを約4年間聴いていた。お世辞にも楽しいとはいえないプログラムではなかったが、1ヶ月数百円の投資で、毎日ネイティブスピーカーの英語を聞いてしゃべる練習ができるのは悪くなかった。

英語教育について誤った考えを持っているのは教える側だけではない、学ぶ側も、学び方が全く分かっていない人が多い、と私は思う。

2014年4月 THEYの使い方

おおざっぱに言うと、英語では、自分以外のすべてが “They”である。

日本のサラリーマンは、よく、従業員である自分に対して、「会社」という言い方をする。例えば、「会社にクビを切られた」という。日本人が中学校で習う英語では、「会社」は単数名詞なので、代名詞“it”に置き換える、と教えられる。しかし、普通の会話では“It fired me."ではなく“They fired me.”と言うのが普通だ。「会社」イコール「社長および管理側の人々」という意味なのだから、代名詞は“they”なのだ。

中学生が学校でいじめに遭ったとしよう。この中学生にとって、自分をいじめているクラスメート、いじめを観て観ぬ振りしているクラスメートは、自分の味方ではない。自分を含む“We”ではあり得ない。この中学生は言う。「みんな私が嫌いなのよ」と。これも “They hate me.”とか “They all hate me.”となる。一般に、公立中学の英語の授業では、「みんな」の訳語は“everybody”だから、三人称単数現在の「s」を付けて、“Everybody hates me.”と考えてしまいがちだ。しかし、この文法知識を会話で実践するのはそれほど簡単ではない。英語学習初歩段階の日本人が使う会話の英語では、現在形と複数形を使えば一番間違いが少なく、混乱しなくて済むので“They”が便利だ。

私が公立中学校で英語の教えるとしたら、まず、“They”の使い方を教えると思う。

例えば、こういう文があったとしよう。
They are so beautiful.
I love them.

さて、これを中学の義務教育の英語で和訳すると、「彼らはとても美しい。私は彼らを愛している」となる。

“They”という単語は、中1の教科書の46ページ目に初めて登場している。教科書の単語リストを見ると、「代名詞。彼ら(は)が、彼女たち(は)が、それら(は)が」と書いてある。続いて括弧内に「それぞれ he, she, itの複数形」と説明が補足してある。私も中学生のとき、このように教えられた。しかし、当時12歳の私は、日本語による日常会話の中で、「彼ら」、「彼女ら」、「それら」という言い方はほとんどしなかった。友だちとの会話でこういう言葉を頻繁に使うヤツは気取り屋である。だから私は“they”の使い方がピンと来なかった。

上の2行の英文は、非常に便利で、「私」が誰であるかによって、“they”および “them”が何にでも代わる代名詞となる。例えば、「私」が「母親」であれば、

「娘たちはとても美しい。私は娘たちを愛しています

「私」が犬の飼い主であれば、
「うちの犬たちは素晴らしい。私はあの子たちが大好きです

「私」が庭を愛する人であれば「花」、「私」がクラシックカーのコレクターであれば「車」となる。

“They”を使うと、日常の英会話がとてもラクになるのだから、まずどんどん使ってみるべきだ。あとは、会話の相手が“Who are they?”と質問したら、あなたにとって“they”は誰、または何なのか説明すればよい。でも、会話する目の前で、娘たちが遊んでいたり、犬たちが走っていたり、庭の花が風にそよいでいたり、ピカピカに磨いた車が並んでいたら、そんな野暮な質問をする人はいるだろうか。

“They”は、本当に便利な言葉なのである。

2014年5月 何歳から義務教育の英語を始めるか 1

近い将来、小学校3年から英語教育を導入する(現在は小学5年)という案が出されているが、これはなぜなのか。早期導入の明確な根拠が説明されていない。早く始める方が「すんなり入れる」とか、「小さい時から学んだ方が、発音がよくなる」とか、早期導入に賛成の母親たちは言う。しかし、義務教育は日本全国の子供が受けるのだから、目的と理由をしっかり説明するべきだ。

文部科学省のグローバル化に対応した新たな英語教育の計画のページを見ると、小学校高学年における現行英語教育の目標は「コミュニケーション能力の素地を養う」。中学校の目標は「コミュニケーション能力の基礎を養う」。で、高校は(義務教育ではなくなるが)「コミュニケーション能力を養う」となっている。

具体的にどういうことなのか全然わかりませんね!皆さんは?

新しい計画における目標は、小学校では、例えば、「なじみのある定型表現を使って自分の好きなものや家族、1日の生活について友だちと会話できる」。中学校では、「短い新聞記事を読んだり、テレビのニュースを見たりしてその概要を伝えることができる」。(テレビのニュースというのは、ケーブルでCNNを見るということなのでしょうか?NHKの夜のニュースは一応英語の同時通訳が聞けるけれど、ジェレミーが毎晩聞いていて、「発音が悪くて何を言っているかわからない」、「プロの同時通訳としてはお粗末な英語」というのが正直な感想。私も同感。実際にはどのニュース番組を前提としているんだか。)高校では、「ある程度の長さの記事を速読して必要な情報を取り出し、社会的な問題や時事問題について課題研究したことを発表できる」となっている。

現行より新計画の方が少しは具体的になっているけれど、相変わらず何だか実用性が感じられません。ハイ。

こういうのはどうでしょうか。

「日本の英語義務教育は、高校で英語圏に留学したとき、普通の高校生の学校生活が送れるような英語レベルまでできるだけ近づくことを目標とし、中学の3年間行うものとする」

前に書いたように、私は、いわゆる「机に向かって勉強」という形での初級英語学習は、公立中学の3年間の授業と4年間NHKのラジオ英語講座しか行わなかったが、私が高校2年(16歳)で米国に留学したとき、担当のカウンセラーの先生と面接があり、あなたは「ESLの授業を受けなくてもよいです」と言われた。そして、「もし1年後17歳で卒業したければ、高校2年割り当ての授業に加え米文学、ディベート、タイピング、ガヴァメント(米国政府について学ぶ授業)の4つの授業には必ずパスしなければ証書は出ない」と言われた。

ESLのクラスは、自分と同じ外国人留学生たちと知り合う機会になるので興味はあったものの、その時間枠は他の授業が取れないのだから卒業証書から遠ざかる。何より、それら4つの必須クラスは、日本の高校では絶対に経験できないものだった。結局私はESLを取らなかった。アメリカは難民や移民の受け入れを日本とは比べものにならない規模で行っている国である。ESLが絶対に必要な外国人生徒は多数存在する。しかし、日本から留学する生徒の英語学習をとりまく事情は、通常、彼らのそれとは全く異なる。私の場合、「外国人だから」と言ってESLを取るのが当たり前、とは考えなかったのだ。

日本人の生徒が学校で外国語を学ぶとき、その言葉が話されている国に行ってみることを前提とするのが自然だ。今後、日本の公立高校が留学にオープンになってゆけば、もっと多くの中学生にとって、数年後に海外で英語を使う自分の姿が現実のものとなる。英語学習の目標としてこれ以上のものはないだろう。考えてみると、若い人に「日本語だけ使って日本だけで生活する」ことを容認するのはおかしい。それなら世界史や地理の授業もやめればよいのでは?世界のことを知れ、というのであれば、世界に送り出すために教える環境を整えるのが当然だ。これは、海外でバリバリ活躍するエリートビジネスマンを創出するための教育という意味ではない。人間、若いうちに出来るだけ見聞を広めるのがよい、というだけのことだ。

高校では、英語以外の言語も選択できるシステムを整備するのが理想だ。中学の3年間で集中的に英語を勉強すれば、外国語の勉強のコツもおぼえて高校での学習に役立つ。もし英語以外に特に勉強したい外国語がなければ、英語を引き続き勉強することになるだろうが、その授業も、翻訳とか英会話とか、卒業後収入に結びつくスキルに特化するのが良いと思う。使えない英語=受験英語は学んでも意味がないのだ。

高校で英語以外の言語を選択したら英語をすっかり忘れてしまうだろうか。私はむしろ反対だと思う。他の言語を学ぶ中で、英語との比較もでき、多面的な語学学習ができるようになる。私は留学を終えて帰国してから、自分でスペイン語の勉強を始めた。住んでいた地域にメキシコからの移民が多く、スペイン語を話す彼らの様子を学校で見て興味を持ったからだ。また、中米および南米からの留学生が多く(校内に日本人は私だけだった)スペイン語が話せたらおもしろいのに、と思ったからだった。勉強を始めると、スペイン語と英語はよく似ていて、英語の直訳をすると意味が通じる場合も多い。本当に面白かった。学校では英語ばかりやらされるからつまらないのだと感じた。

次に義務教育としての小学校英語は止めて、中学3年間のみにする、という点について。学校英語教育を早期に開始する案に関しては、どうすれば日本人の子供が英語を話せるようになるか、という視点から多くの専門家が意見しているが、それはおかしい。英語の授業を増やすためには他の授業が削られるのであり、それなら、どの科目がなぜ削られるべきなのか、まず説明すべきだ。私は、英語のために日本語(つまり国語を)削るべきではないと思うし、植物や動物の育て方など、今までより多くの時間を費やすべき授業もたくさん考えられる。

最近、ニコラス・ケージとニコール・キッドマン主演の映画『ブレイクアウト』をテレビで観ていたら、強盗一味に後ろ手に縛られたニコラス扮する父親が娘に“Twist your body.”と言うシーンがあった。驚いたことに、字幕が「身体をひねろ!」と出た。動詞「捻る(ひねる)」はら行五段活用である。この命令形は「ひねれ!」でなければおかしい。この字幕を書いた人は、例えば、太宰治の『走れ、メロス』が、『走ろ、メロス』となっていても違和感を覚えない日本人ということになる。これは、かなり重症?!

さらに2日後、今度はガイ・ピアースとニコラス・ケージ主演の『ハングリー・ラビット』を観ていたときだったと思うが、その中で「鎮静剤を飲ましとけ!」という字幕が出た。使役動詞は「~せる、させる」である。「飲ましる」ではない。「飲ませておけ」または「飲ませとけ」が正しい。これは中学1年で習った。

字幕翻訳という仕事をしているのだから、英語が得意な人たちなのだろうが、母国語である日本語に問題がある人も多そうだ。政府が英語教育を強化したくて小学生のときから英語を教えた結果、言葉を商売にしている人たちにこういう現象が多発するとしたら!?中学1年で教える日本語文法を小学校5、6年で教え、中学に入ってから英語を集中的に勉強する方が納得できるけど。

2014年6月 何歳から義務教育の英語を始めるか 2

前回、「日本の英語義務教育は、高校で英語圏に留学したとき、普通の高校生の学校生活が送れるような英語レベルまでできるだけ近づくことを目標とし、中学の3年間行うものとする」という提案をしたけれど、実際に、公立高校の交換留学生として、高校3年に投げ込まれた私が、英語で出来たことと出来なかったこととは?1985年の夏に戻って書いてみよう。

できたこと その1: 米国で飛行機に乗って自分の目的地に着くこと。

私が参加した交換留学プログラム(高校の交換留学では規模も大きく、現在も続いている)の担当の日本人女性は、成田空港から最初の乗り継ぎ地点であるシアトルに着くと、私たち6人を空港に残し、ロサンジェルスおよびサンフランシスコ方面をステイ先とする大多数の留学生を引率すべく、さっさと姿を消した。「私たち6人」というのは、北西部諸州をステイ先とする留学生で、シアトルから目的地までの便はアラスカ航空しかなかった。言ってみれば「僻地組」である。

彼女は、シアトルの乗り継ぎロビーで、私たちに次のフライトの時刻が書かれた紙とチケットを手渡すと、別のターミナル行きのエレベーターに乗り込んだ。シアトルからは私たちだけになる、という話は出発前にされておらず、私たち6人(全員初対面の女子高校生)は、ピカピカ光る鋼鉄製の分厚いエレベーターのドアが閉まるのをきょとんとして眺めていたのを憶えている。

今考えてみると、交換留学プログラムの後援企業には、カリフォルニア州に現地オフィスがある日本の大手自動車メーカーなどがあり、同州のホストファミリーの数はとても多かった。プログラム担当者としてその地域を優先するのは営業面から当然のことである。しかし、その日、初めての海外旅行で空港において行かれたことは、私たちにとって驚きだった。

同じアラスカ航空ではあったが、最終目的地は全員ばらばらだった。私はフライトの時間が来るまでターミナル付近のベンチで6時間近く待った。目的地の小さな空港では、ホストファミリーと地域の担当員のアメリカ人の女性が待っていた。学校の教室くらいの面積の小さなターミナルだった。

後日この話を手紙に書いたところ、日本の母も驚いていた。親から見れば、「非常に無責任なプログラム」という印象だったのだ。しかし、振り返れば、あれこそ私が初めて英語圏で一人旅をした経験だった。

できたこと その2

米国へ着いて約1ヶ月後、私は、ホストファミリーとトラブルになり、同じ町に住む別のファミリーへ移った。きっかけは、クロスカントリー部に入った私が、トレーニングを終えて空腹で帰宅し、夕食前に、キッチンに置いてあった自家製のクッキー(4、5枚)を平らげてしまったことだった。1歳下のホストシスターが母親に不平を言ったのだ。

私の方も、ドアも窓のない屋根裏部屋をそのホストシスターとシェアしていたため、着替えをしているときにティーンエイジャーのホストブラザーやホストファーザーが部屋に入ってきたこと、勉強机がなく、皆がテレビを見ている居間のソファで勉強しなければならないことなどに大きな不満を感じていた。話し合いの結果、さまざまな問題が浮上し、最後はホストマザーと一騎打ちになり、移ることに相成ったのである。最後の話し合いの晩に向けて、自分の主張をノートに10ページくらい英語で書き、それを持って彼女との議論に臨んだのを憶えている。

その後、近隣の州で学ぶ同じプログラムの日本人留学生との交流会の際、私と同じように最初のファミリーを去った学生に数人出会ったが、1ヶ月で「ホストファミリーと話し合って結論出した」学生はおらず、「うまく説明ができず、結局移ることができたのは11月だった」などと話していた。私よりかなり時間を要したわけだ。そして「もっと早く移ればよかった」と言った。そのうちのある女子生徒などは、ホストファミリーが、ベッドの下に残飯をのせた皿を置いて猫に食べさせる習慣があり、着いたその日から別のファミリーを希望したかったそうだが、結局、話し合いにこぎ着けるまで3ヶ月も要した、と話していた。

米国へ出かける前に、私たちは「もし、ホストファミリーとトラブルがあった場合は、地域担当員に相談する前に、まず出来る限り自分でファミリーと話し合い、問題解決を試みること」とプログラムが用意したオリエンテーションの中で訓練を受けていた。当時は電子メールやコンピューターは無く、手紙を書けば返事をもらうのは2週間後、国際電話は非常に高額という時代。私も、ホストファミリーの問題は自分で解決し、実際に次のファミリーの家に移ってから、日本の両親に手紙を書いた。

できなかったこと その1:ごちゃごちゃ考えずに自分の気持ちや考えをストレートに言葉にする

ステイ先に到着してから2週間ほど経ったある日曜日のこと。私のホストファミリーが所有していた2台の車の1台に乗って教会の礼拝に行った。車の1台はピックアップトラックで、父親が主に通勤に使っていた。もう1台は小型のステーションワゴンでかなりのポンコツだった。乗る前に5分間くらいエンジンをかけておかないと途中でエンコしてしまうのだ。

さて、礼拝が終わり、教会から通りを挟んだ駐車場へ皆が移動し始めたとき、ウチの車のエンジンがかからなかった。結局、私とホストブラザーは、礼拝に来た人々の前で、車を後ろから押して歩かなければならなかった。ホストシスターは、骨の病気をわずらっており、そのような力仕事はできなかったので車の中にいた。私は運転免許を持っていなかったが、このような車に乗ることは危険である、と思った。スピードを出している最中に急にエンジン停止でもしたらどうなるのだ。それに、大勢の人の前で車を押すなんて、恥ずかしくて仕方なかった。通学にこの車を使うこともあったので、私としては、「この車に乗るのは不安です。(I don’t feel comfortable riding in this car.)」とためらわずに言うべきだったのだが、切り出すことができなかった。その時の気持ち「この車には乗りたくない」を直訳した“I don’t want to ride in this car.”と実際に言うのはあまりにも失礼だと感じ、ごちゃごちゃ考えて何も言えなくなってしまったのだ。

その家族の夕食では、ほとんど毎日のようにジャガイモを食べた。キッチンには電気で油を温め、四角い網をドボンと入れてフライドポテトを作る調理器具があった。ポークチョップを焼くと、フライパンに残ったラードに小麦粉、塩、こしょう、牛乳を混ぜてグレービーを作り、肉にかけて食べた。日本ではそのように脂肪分の高い食事はしたことがなかったし、日本人の常識で考えれば、非常に身体に悪い食生活であることは一目瞭然だった。ホームステイを始めて間もなく腹具合が悪くなり、トイレでゲエゲエ吐いた記憶がある。

今考えると、「今日は新鮮なサラダが食べたい。(I feel like a fresh salad today.)」とか、「蒸し野菜は好きですか。(Do you like steamed vegetables?)」とか、何かうまい提案の方法もあったと思うし、日本の食文化を紹介します、と言って、野菜や穀類を取り入れた健康的なメニューを提案することもできたと思う。だが、現実は、日本で人気のあるジャガイモ料理として、野菜をたくさん入れた「コロッケ」を作って一度食べてもらうのがせいぜいだった。

外国人を相手に異論を唱える表現は、中学の義務教育で習う英語では重視されていない。日本の教育においては、何に対しても「異論を唱える」ことは奨励されないのだから、アメリカへ行ってみるまで私もあまり深く考えたことがなかった。しかし、英語の日常会話では「イエス」より、「上手にNoという能力」の方が大切だと思った。

2014年7月 何歳から義務教育の英語を始めるか 3

できなかったこと その2

前にも触れたように、卒業するには米国文学の授業を修了しなければならなかったので、その授業を受けたが、1年間でスタインベックの『怒りの葡萄』、ホーソーンの『緋文字』、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』、さらに、記憶が正しければストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』といつくかの詩を読まなければならなかった。授業では、内容に関する先生の質問に口頭で答えるため、どんどん読み進まなければならなかったのだが、やはり語彙が全く足りなかった。辞書ばかり引いて時間だけが過ぎて行き、という感じは否めなかった。さらに、単語の意味は分かったものの、文化のちがいや時代背景を理解し、ストーリーや著者の意図を読み取るためには何度も同じ部分を繰り返し読まなければならなかった。日本の中学や高校における英語学習は、英語の名作小説を読むにはまったく不十分であった。

この米国文学のクラスでは、短い風刺物を書くという課題もあり、ユーモアのセンスも試された。英語で冗談を言う、皮肉を言う、などのスキルも足りないと思った。その国の名作文学が読めない、冗談や皮肉が言えない、のでは「普通の高校生の生活ができる」とは言えない。語彙を何倍にも増やすこと、英語で長文を読むこと、英語で自由に考えること、を中学の3年間で重点的にやってみるとよいと思う。

ただ、この経験を通して、外国語で書かれた本を最後まで読むことに慣れたのも確かで、その後も外国語で書かれた本(ほとんど英語で、スペイン語は数冊だが)を読み続けるきっかけになった。大学時代に、フィツジェラルドの『華麗なるギャツビー』、スティーヴン・キングの『ディファレント・シーズンズ』、レイ・ブラッドベリーの『華氏四五一度』まで、それまでに見た映画の原作本を読むという楽しみが味わえたのもあのクラスおかげだ。バロウズの『裸のランチ』は、とても難しかった。後になって、本のページに単語の意味をメモしたのをジェレミーが見つけておもしろがっていた。

日本の学校授業の中だけで英語を学び、まぁまぁの成績を出している生徒は、「自分は英語ができる」と自己評価する。外国語の学習は、「テストができる、できない」の基準で判断するものではなく、「年齢相応に、本人が使いたい形で使えるかどうか」が重要。小学校の頃アメリカで生活していた人で、その後日本で生活し、大学生になった時、ネイティブの英語指導者から「英語の話し方が子供みたい」という評価を受けてしまう日本人もいる。自分は英語ができると思っている日本人の高校1年生に、例えば「アメリカで普通自動車運転免許を取得し、高校のカフェテリアへ行って友だちを誘い、映画を観に行き、その映画について何か一つ冗談を言って友だちを笑わせる」という課題を与えてみれば、「私は英語が得意だ」と言うとき、それが具体的にどういうことなのか身近に考えるだろう。好きな子をデートに誘い、読んだ本や観た映画について面白おかしく会話ができないレベルでは、あまり外国語を勉強した意味がない。
 私が交換留学で行った州では、14歳で運転許可証が、16歳で免許証が取れた。私は、20代のときカリフォルニア州で許可証を、30代のときニューヨーク州で免許証を取得した経験がある。アメリカの運転免許の試験は日本のそれよりシンプルで簡単である。でも、私の知人の中には、日本の4年生大学を卒業し、ベルリッツなどで英語を学んでいたにも関わらず、一度で合格しなかった人もいる。その人の名刺をみると、肩書きの一つに「通訳」とあった。

最近読んだAPの記事によると、米国のオレゴン、カリフォルニア、ニューメキシコ、ワシントン、イリノイ、ルイジアナ州では、二カ国語プログラムを採用している学区があり、修了した生徒にはバイリンガル認定印が授与されるそうだ。プログラムは、スペイン語、中国語、ベトナム語、ロシア語などで行われている。最近のアメリカでは、バイリンガルの学生の雇用機会が拡大していることや、学生の親も、グローバル化する世界で成功するためにバイリンガルであることの必要性を感じるようになっている、という背景があるらしい。このプログラムでは、高校入学まで英語しか話さなかった生徒も、一日のうち少なくとも一部は、外国語の読み書きの授業、または外国語で行われる学科授業(文学、歴史、地理など)を受けるということだ。バイリンガル認定印は、学習課題の評価、バイカルチャー知識、バイリンガル面接などを基に授与される、と書かれている。

このようなプログラムは、「あたかも外国へ留学したような状況」を毎日数時間作りながら外国語を身につける方法であることが想像できる。これは、私からみれば「当然であり自然」だと思うが、こういう語学学習がなぜか日本ではなかなか行われない。前にも触れたように、何十人という大学の名誉教授が作った「単語リスト」をのろのろとなぞってゆくだけの授業が何十年も続けられている。

そんな中、昨年12月に文部科学省から、これこそがソリューションとでも言わんばかりに発表されたのが、英語を正式教科とする学年を小学校5,6年に前倒ししようとする計画。7月2日の朝日新聞に、この計画の推進派と反対派の専門家の意見が掲載された。次はこれを紹介しながら「バックシートドライバー」節を続けます。

2014年8月 何歳から義務教育の英語を始めるか 4

7月2日(水)の朝日新聞の教育欄に「英語教育の早期化どうみる」という記事が載った。文部科学省が昨年発表した、小学校の5、6年で英語を正式教科とする案に賛成の吉田研作氏(上智大言語教育研究センター長)と、この案に反対の大町慎浩氏(平岡塾代表)の意見が載っている。前にも触れたが、私は、他の教科を止めて英語が教えられる形には賛成しない。他の教科を削除し、英語を優先する理由が説明されていないからだ。それに、私自身中学から英語を学んだが、特に問題なく英語圏で生活できる。早期化してはいけない、とは思わないが、早期化する必然性も感じない。早期化すると英語でコミュニケーションができる日本人が今より格段に増えるとも思わない。

さて、件の短い記事のみで、専門家二氏のご意見が十分説明されているとは思わないが、お二人のご意見について私が疑問を持った点を示すだけで、普通の人と専門家の考え方のギャップが見えて面白い。

まず、吉田氏のご意見を読んでみた。

最初の指摘は、現在は小5、6年で英語が週1コマ必修化されているが、教科ではないので目標が明確でないこと。今回の方針変更により英語が正式教科になれば身につける目標が明確になる、という点。それにより、中学入学時には、ある一定の英語の力が身についているということ。

次に、小学校から英語を学習し始めた子供は、そうでない子供に比べ異文化や外国語に対する興味、関心が高い、という点。

第三に、「小学校では日本語をしっかり学ぶべき」という意見に関し、生活のほぼすべてが日本語なのに数に数時間英語を学習することが日本語力に影響を及ぼすとは思えない、という点。

第四点は、将来的には大学入試を「聞く、話す、読む、書く」の4技能を合わせた試験に変えるべき、という点。なぜ、将来的?「今すぐ」でも遅すぎる第一歩にしかならんと思うけど。

第五点は、小学校でコミュニケーション(聞く、話す)重視の授業ができれば、中学や高校でも継続できる可能性がある、とする点だが、この記事を読んだだけでは、正直なんのことだか私にはよく分からない。小学校でリスニングやスピーキングに馴染んでおけば、中学や高校でも子供たちがその能力を維持できる、という意味だろうか。

最後は、指導者育成の問題について。先生が足りない場合は、とりあえず、外国人助手、民間の指導者、民間人にトレーニングを受けさせ、資格を取ってもらい、担当と一緒に教える、としている点。

さて、英語が正式教科になると目標が明確になる、というのは、そうなのだろうか?先生たちには文部科学省から「目標」が示されても、生徒にそれが理解されるかは疑わしい。このブログの最初の回で、中学校の教科書の冒頭に出てくる文言を紹介した。それが「達成されない目標」を示していることは生徒にもぼんやりと分かっているし、私の中学時代の先生は、中学の英語課程を終えても「英語を話せるようにならない」ことを認めていた。

小学校必修英語の目標が、例えば「アルファベットを正しく発音できる」ことであればできるかも。CNNは、「しーえぬえぬ」ではない、とちゃんと教える。また、BSが「衛星放送」の略と思っているのは日本人だけであり、英語圏では「でたらめ」(bull shit)の意味である、というように、日本語英語およびカタカナ英語と英語の区別をつけるという目標も実際的。

第二の異文化や外国語に対する興味、について。早くから英語学習を開始することが文化や言語の多様性への関心を高める、というより、周りに外国語を話す人がいることや、外国を紹介する環境があることで、大人になっても多様性に自然に接することができる可能性が高いのではないだろうか。積極的に興味を持つ、というより、それが当たり前なので抵抗がない、ということだ。

横浜には中華街がある。子供の頃レストランへ行くと中国人がいて、中国訛りの日本語を耳にした。日本語の「ば」という音が「ぱ」になる中国人がいる。日本人が、rice(米)と言ったつもりでlice(シラミ)と言ってしまうのと同じようなもの。大学生になって中華街で給仕のアルバイトをした。ある店で、日本人のフロアスタッフと中国人コックの間を仕切る中国人の女性がいて、私たちアルバイトが注文を間違えて持って行ったりすると、「あんた、パカね!」と大きな声でなじる。彼女は「バカね」と言っているつもりなのだが。この「パカ」という音に愛嬌があり、どうしても怒る気にならなかった。帰り道、いつもバイトで顔を合わせていたもうひとりの女子大生と「どうせ私たちパカだから」と言って笑ったものだ。

外国語の発音が悪いとバカにされる、恥ずかしい、と多くの日本人が思うのは、いろいろなお国訛りで日本語が発音される環境がまわりに存在しないから。異文化に対する子供の興味を高めよう、というのであれば、英語学習に限定するより、日本にいる外国人といろんな活動を通して知り合うプログラムみたいなものの方がいい。

第三の「生活のほぼすべてが日本語なのだから、云々」という点。大学の頃、アルバイトで家庭教師をした。ある小学6年生の男の子の国語の成績が悪くてヘルプしていたが、彼の母親から、「中学入学に向けて簡単な英会話も教えてほしい」と依頼された。その子と接するうち、国語ができない、というより、日本語を読むことに慣れていないことがわかった。教科書に出てくる文章やテストの問題文を音読させると、意味が切れているところで息継ぎをすることができず、頻繁に読みが途切れる。一度読んで意味が把握できないのだ。それから数ヶ月、毎回、漱石の『我が輩は猫である』を持って行き、ゆっくり音読させてから「今読んだところで何が起こったか説明して」と話させる訓練を続けていたら、だんだん慣れてきて読みながら理解できるようになった。しばらくしてお母さんが、国語だけでなく社会の成績も20点くらい上がった、と言った。彼は勉強ができない、というより読むのが苦手だったのだと思う。紙のテストでは黙読ができないと点数も上がらない。彼は、本を読み足りないだけだったのだ。このことにお母さんが気付いていれば、「英会話を教えてくれ」と私に頼む代わりに、日本語で書かれた本を子供に読ませただろう。

当時(1990年の初期)、コンピューターはまだ家庭に普及しておらず、スマホも存在しなかった。最近十代の子供の多くが、1日2~3時間、スマホでクラスメートとほんの数語しか使わないメッセージ(それも省略された言葉や絵文字だらけの)を交わしているという事実がある。「生活のほぼすべてが日本語」ではあるが、使っている日本語の質や内容を考えるとき、小学生で増やすべきなのは「外国語」の授業ではなく、国語や日本語による読書の時間ではないかと思う。そうしないと、将来、外国語はもちろん、日本語で勉強する他の教科も理解できなくなる可能性大だ。

第四点については、説明する必要もないだろう。

第六点の指導者育成の問題について。研修の修了や資格の取得を徹底し、日本人の担任教師と一緒に教えるのが現実的、とあるが、これはちがうと思う。

今日の小学校では、生徒の母親が読み聞かせをやっている。子供が本を読まないので親が出かけて行って音読してやるのだそうだ。母親たちは国語の教員免許を持っているわけではない。英語の授業もこの感覚でよいのではないだろうか。母親たちが英語の本の音読をし、(少々練習しなければならないだろうが)子供たちに読み聞かせる。読みながら単語の意味を教えたりする。子供がかわいけりゃ、準備に時間を割こうというものだ。発音は日本語訛りでもよいのだ、と親が手本を見せることで、子供もクラスで英語を使うことを恥ずかしがらなくなりそう。大体、「ネイティブスピーカーのように英語が話せない」とコンプレックスを持っているのは、子供たちではなく親の方なのでは?ニューヨークでは、英語はさまざまなアクセントで発音され、そのすべてが「オーケー」であり、理解される。完ぺきな発音で英語を話せる日本人を大量生産するために小学校で義務教育として英語を教えるのではないのだから、身近な自分の母親や父親が英語の本を読んでくれる、その親近感の方が子供にとってはすんなりくるだろう。自分も話せない英語を子供にだけ強制しても、子供から見れば、「お母さんはできないじゃないか」となる。小学校で子供と一緒に英語を学ぶ親、という形ができれば、それが代々継承されていく。英語によるコミュニケーションがもっと身近になっていく。でしょ?

2014年9月 何歳から義務教育の英語を始めるか 5-1

さて、前回は、文部科学省が打ち出した英語教育の早期化に賛成の専門家のご意見(2014年7月2日付朝日新聞掲載)について書いてみた。今回は反対の専門家、大町慎浩氏(平岡塾代表)のご意見を見てみよう。

この方は、早期化は無駄、つまり実行しても「高卒時点で英語を話せる」というゴールは達成できないから、今までのやり方を早急に変えるべきでない、というご意見だ。前回の吉田氏よりは説明も具体的だ。例えば、「英語が話せないと食べてゆけない」というくらい強い動機付けが無いので身につかない、というご指摘。そして「語学はスポーツや楽器などと同じ技能であり、上達には何度も繰り返し訓練して身につけるしかないが、授業で英語に触れる時間は、現在の中学校3年間でトータル420時間。つまり1日あたり12時間毎日勉強したとしても約1ヶ月分にしかならないので、これに小学校5、6年で週1コマ増やしても、英語を話せるようにはならない」というご指摘。

次に、平岡塾では、日本語が「きちんとできる」生徒の方が英語の上達も早い。英語は早く始めればよいというものではなく、まず母国語である日本語をきちんと身につけてから学ぶべきだ。聞く、話すという能力も必要だが、文法を理解しなければ自分で創造的に英文を組み立てることはできないのだから、文法を解説し、教科書を訳す昔ながらの授業への批判は妥当ではない」というご指摘。

そして、最後に、「学校で教える英語の目標は、将来英語が必要になった時、自分で学ぶための基礎を子供に授けることだ」と結んでおられる。

平岡塾のホームページを見ると、「将来世界で活躍する中・高生のための英語専門塾」ということのようだ。卒業生の東大等名門大学合格率も謳っている。つまり、ここへ通う生徒たち、およびその親御さんたちは、「学校の英語の授業では不十分」と考えている人たちだろう。これまでも書いた通り、それは私も同感だったが、私の場合、学校以外追加的に英語を習った経験は、高校留学前の3ヶ月間、週1回のカジュアルなグループ英会話教室に通ったときのみ。(テストや教科書はなく、カナダ人の先生と和気あいあいとテーブルを囲んで英語を話す形のもの。)私は、英語を「エリートの技能」として捉える感覚がない。ただ、当時、日本で日本語だけしゃべっているのはあまりに狭い、と漠然と感じてはいた。大町氏の生活に関わるくらいの強い動機付けがないと身につかない、という感覚は、塾の経営者らしいと思う。私の動機付けは「楽しいから」、「好きだから」、「面白いから」だったので、学校の英語の授業は面白くなくても、例えば、『刑事コロンボ』を、小池朝雄さんの日本語吹き替えだけでなくピーター・フォークのオリジナル音声でも楽しむために勉強した、という感じ。こういう人、多いのでは?

8月23日付の『International New York Times』紙に、テレビでお馴染みのデイヴ・スペクター氏に関する記事が載っている。彼が日本に興味を持ったのは小学5年生の時、日本人のクラスメートが日本のマンガ本を見せてくれたのがきっかけである。その風変わりな魅力の虜となり、どうしても読みたくて土曜日に日本語のクラスへ通うようになった、という内容だ。私も、中学生の頃、テレビのバイリンガル放送が始まり、これまで聞いたことのない洋画の俳優さんの生の声を初めて耳にし、英語のセリフを理解したい、という気持ちがとても強かった。

私の母(昭和10年生まれ)の時代は、英語ではなくフランス語だったそうだ。日本では仏男優アラン・ドロンが大人気の時代。母の中高時代の友人は、彼の映画に魅せられ、大学でフランス語を専攻し、彼女のお嬢さんは、シェフとして今フランスに住んでいるそうだ。

短期的に考えれば、「英語ができないと食べていけない」という恐れと緊張をバネに集中的に英語学習を行う、というのも理解できるが、大町氏の言うように「スポーツや楽器」と同じように何度も繰り返し訓練して体でおぼえる、というのであれば、やはり長期的に楽しんで学ぶ方が現実的ではないだろうか。ジェレミーがフルートを吹く姿をほとんど毎日見るが、吹くのがとても楽しそうだ。好きでしょうがない、という感じ。楽しくなければどうやってこんなに長年続けられた?

私も、高校留学の1年間は、「米文学のクラスにパスしないと卒業できない」ので、必死で課題図書を読んだことは前にも書いた。でも、それは一年間だけ。大学で米国人のボーイフレンドと英語で会話したこと、好きな本を読んだこと、お気に入り洋楽バンドの音楽を聴いたこと、英語圏やヨーロッパを旅し、英語やスペイン語を使って外国の人々と友だちになったこと、などの経験を通して日々の生活に外国語の学習が定着し、継続できたと思う。「楽しく継続」がカギ。これは、多くの日本人が自分の体験として理解していない事実である。

英語教育の早期化に賛成の吉田氏も、反対の大町氏も、この記事の中では「外国語の勉強は楽しい」とは一言も書いていない。しかし、英語教育の早期化の理由を探すとしたら、おそらく、試験ナシの環境で、外国語を使う楽しみを体験させる、ということかもしれない。

2014年10月 何歳から義務教育の英語を始めるか 5-2

日本人と英会話をする中でジェレミーが気付いたことがある。「難しい単語より、むしろ簡単な単語を知らない場合がよくある」ということだ。例えば、ある医師は英会話がある程度できるのだが、ジェレミーが「注射」という意味で “shot”と言うと理解せず、“injection”なら理解するそうだ。服用薬が「錠剤」つまり “pill”の場合、「飲んでいる薬」という文脈の中でその単語が理解できず、ジェレミーが“my medicine”と言い直すこともあるらしい。よく日本人の研究者や科学者の中に、専門分野の論文は読んだり書けたりするのに、日常会話となると…という人がいて、ニューヨークでもそういう人に出会った。

普段の生活ではより簡単で短い表現が使われる。例えば、小学校5、6年では、英語の授業をするのではなく、家庭科の調理実習のレシピを「英語で書いてみる」という英語学習を組み入れる、なんてのはどうだろう。「フタをする」、「強火で炒める」、「豚肉100グラム」など、家庭で使う表現は、中学生でも知っている単語しか使わない。しかし、思いつくことができない日本人はとても多い。大体、“recipe”という英語を「レシピ」とカタカナ化して使わせるようにしたのはどこの誰なのだ?正しい発音の習得さえできないぜ。

英語学習の大きな障害であるカタカナ英語については、また別の機会に。

音楽の授業では、「小節」とか「本位記号」とかの用語を英語に置き換えてみる。「小節」を英語では “bar”言うが、大抵の日本人は “bar”は「酒を飲むバー」と思っている。「本位記号」は “natural”。日本語では「ナチュラルな雰囲気」とか「ナチュラルメーク」(自然な化粧)」とかカタカナ英語として頻繁に使われている言葉だ。

社会科では、世の中のいろんな職業を英語で言えるようにする。「消防士」が“firefighter”つまり「火と戦う人」であると分かれば、日本語の「火消し」という言葉と似ていて、でもちょっとちがうことに気付いたりする。野球の「スクイズ」は “squeeze”、「スチール」は “steal”なんてこともおぼえる。

要は、子供たちに、さまざまな教科について「これ、英語ではなんていう?」と考えさせること。こうすれば、英語を担当する先生だけでなく、小学校教師全員が生活に役立つ英語入門プログラムについて話し合うきっかけにもなると思う。

さて、大町氏のご意見に、「日本人が英語を身につけるには、日本語で論理的に考えながら基礎を定着させていくしかない」とある。その後で「英語はまず、読めることと書けることが先決だろう」とある。そんなことはないと思う。

外国語を身につけるとき、まず具体的な事柄を表現できるようになり、その後抽象的な表現に進むのが普通だ。私は、中学生のある日、どうやったら英語を話せるようになるか考えた末、ひとつ試してみることにした。日本人が日本語で「バッターがライトスタンドホームランを打った」とナイターのラジオ実況中継を聞くと、その情景を「絵」として思い浮かべる。アメリカ人が英語で同じように実況中継を聞くと、その情景を「絵」として思い浮かべる。しかし、当時の私の頭は、ラジオで英語を聞くと、それを日本語に訳すという作業を経たのち、情景を「絵」として思い浮かべていた。その「訳す」という余分な作業を省いて、ネイティブスピーカーみたいに英語を理解する感覚を試してみようと考えたのだ。その日から、私は、英語を頭の中で日本語に直さず、即座に「絵」を思い浮かべることにした。もちろん意味を知らない単語は辞書で調べるのだが、その後はとにかく絵を頭に思い浮かべて英語のフレーズを頭の中で繰り返し唱える。私の場合、通学の電車が片道20分だったので、ラジオ英語講座のスキットを利用した。月曜にスタートしたストーリーが金曜に終わるので、繰り返すフレーズが週末に向けて増える。

意識的にこれを続けた結果、私は会話がとても得意になった。学生時代は、私が英語を話すのを聞いた人から「どうやって英語を勉強しましたか?」とよく質問された。しかし、同じ頃、抽象的な思考を長文に書こうとすると、まず、日本語で全文書いてから英文を書くとうまく書けることも分かった。具体的なことは「絵」として思い浮かべることができるが、抽象的な概念はそう単純ではない。いろいろな作業を並行してやり続けるうちに、自分に何が足りないかが分かる。

ニューヨークに住んでいた頃、4年半ばかり、さまざまな企業の翻訳の仕事をしていた。週5~6日、朝の9時から夕方の5時、6時まで、日本語なら最高6000字、英語なら3000語、日英、英日双方向の翻訳をした。この時までは、訳す作業は極力避けていた。中学校では、先生に出された教科書の英文テキストの日本語訳の宿題は一度もやらなかったし、(先生に指されたときだけその場で日本語訳をした)高校時代からずっと日記も英語で書いていた。英語を日常的に話すようになったのはアメリカ留学中だったので、日本に帰ってからも数年は、「私の中の英語人格」みたいなものが存在していた。こういう感覚は今では全くない。英語を話す自分も日本語を話す自分も同一人物だ。

書き言葉と話し言葉はちがう。外国語を学ぶときは、その線引きを明らかにして教えることも大切だ。最近、自然災害が増え、ニュースで「避難路を確保する」という表現がよく使われている。ある日、テレビで、避難訓練を終えたばかりの小学低学年の少年にレポーターが「訓練をやってみて、どうだった?」と訊ねた。その子は「みんな避難路を確保したほうがいい」と、メディアで流れる表現を聞いたまま使って答えた。しかし、それは会話的な表現ではない。特に年齢が一桁の子供の自然な言葉ではない。「あらかじめ逃げ道を作っておく」とか、もっと他に言い方があるだろう。子供のアタマはスポンジみたいに聞いた言葉を吸収し、オウムみたいにマネする。アタマが柔らかい子供に言葉を教えるときは、こういうことを意識して教えるが良いと思う。

英語で話し言葉と書き言葉の両方ができるようになるためには、「話し言葉」と接触する機会を中学校で増やす必要があると思う。これについては、大町氏もご指摘のように、「授業で英語に触れる時間が圧倒的に少ない」ことが問題であって、必ずしも小学生で正式英語授業を始めることが解決策ということではない。私は、中学の3年間に、読み、書きに合わせて、話す、聞くも集中的に練習させるのが良いと思う。

最後に、大町氏の考える「学校で教える英語の目的」について。将来英語が必要になったときに自分で学ぶための基礎を授けること」としている。英語が将来必要だ、と今考えている生徒は、氏の塾のような場所で学習するので、中学校や高校の役割は、生徒一般を対象とした基礎のみを教えるということだろう。英語を職業的な技能と見なせば、それも一つの考え方。でも、英語の勉強は、ただの職業訓練ではないと思う。

外国語をある程度のレベルまで習得することにより、英語圏で生活する人のものの考え方のちがいを感じ、経験することになる。それは、日本人全員にとって必要な経験だ。新聞を読むことを例にとっても、日本語で書かれている新聞だけ読むのと、英字新聞と日本の新聞の両方を読むのでは、世界の見方が大きく異なる。中学校でそれを経験することにより、高校でも自主的に英語や他の外国語を選択する生徒が増えると思う。高校、大学、社会人になっても外国語を使う習慣が続く可能性が高くなる。

では、どうやって「普通の高校生レベルの英語力」をテストするのか、ということが先生たちの間で問題になるかもしれないが、文法や作文のテストは、現在のシステムの中で既に出来上がっていて、おまけにやり過ぎ。これ以上何をテストするというのだ。重要なのは、現行のテストを続けても、それがすべてではない、という教育者側の姿勢をできるだけ早く実現することでは?

たとえば、高校生(つまり1年後の自分)を主人公にした短い現代劇の脚本を書き、それを人前で演ずる、なんて作業はどうだろう。英語圏の高校生レベルの英語力、はあくまで狙う目標であり、テストを用いて達成度を数値的に示すことは敢えてしない。文法や作文のテストの点も、生徒個人の目安とする。生徒本人が「目標が達成できなかった」と感じれば、高校でも英語を選択して学習を続けるかもしれないし、そうではないかもしれない。それでよいのだ。それで将来英語が必要な職に就いて、もっと英語ができる同僚が先に昇進しても、それは仕方ない。社会に出れば、英語力に限らず、他のどんな能力でも同じことだもん。

もし、私の考えが正しくて、学校を卒業した後も外国語を使った生活をする日本人が増えていけば、英語が苦手な人と得意な人が大らかに英語を使う環境が整う。英語ができないコンプレックスや英語ができるからエリートっていうのがなくなる。ちがうかなぁ。

2014年11月 職場で外国語を使う

英語で食べている日本人の中に、「英語を話せない翻訳家」がいる。私も何人かお目にかかったことがある。彼らは、高いレベルの英語読解力および英語から日本語への翻訳技術を備えているものの、日常英会話ができない。私がお目にかかった「英語を話せない翻訳家」の方々は、ご自分から「私は英語が話せません」とおっしゃったし、実際にジェレミーほか外国人と同席してもまったく英語を話さなかった。私が仕事で翻訳をしていた頃お目にかかったあるベテラン翻訳家は、私に面と向かって、「あなたのように英語をぺらぺら話せる翻訳業の方に、初めてお目にかかりました」と言った。こういう人の中には、有名な出版社による書籍に、翻訳者として名前が印刷されている方もいる。これが日本の翻訳業界の実情なわけだが、「英語で会話もできないのに翻訳ってどういうこと?」と不思議に思う人も多い。この感覚は誰でも理解できなくはないはずだ。子供は、まず言葉を話し始め、それから学校へ行って読み書きを習う。読み書きのほうが会話より難しいはずなのにね。私が不思議に思うのは、翻訳を仕事にするほど英語の勉強をしてきたのに、英会話だけ練習しないという状況が続いたのはなぜなのだろう、ということだ。意識的に機会を避けて来たのだろうか。その答えはご本人たちに訊いてみないとわからない。

英語の読解力と日本語を書く能力があれば英語を日本語に翻訳できる。だから必ずしも英会話ができなくても英語を和訳することができる。私がお目にかかった翻訳家の方々は、英語を和訳する仕事をしていたが、日本語を英訳する仕事はしていなかった。

私は、両方向の仕事をもらっていた。勿論、私が書いた訳は、英語の場合、英語を母国語とするプロの編集者によって、また日本語の場合、日本人の編集者によって編集され、完成品としてお客様に提供される。特に英訳に関しては、プロの編集者の方からかなりのフィードバックを頂き、仕事をしながら英文を書く勉強をさせてもらった。

面白い経験もある。中国と東南アジアで事業拡大中のある日本企業のニュースレターの英訳を定期的にやらせてもらったが、ある時、斡旋会社の担当者から、「あの会社は、あなたの英訳をネイティブ編集者による校正なしで希望している」と言われた。これは、私の英訳が編集を必要しないほど優れている、という意味ではない。理由は、日本人(つまり私)が書いたままの英訳の方が、日本人のお偉方にとって、日本語の原文の意味が正確に訳せているか確認しやすいのだそうだ。つまり、この企業に限って、「英文らしい英文」は不人気だったわけだ。これは、彼らの校正プロセスによるものだろう。日本語の原文と英訳を並べ、一語一語漏れがないか、誤訳がないか、とチェックしていたに違いない。

読み易い訳とは、原文に書かれた情景や概念が、読者にとって一番自然な形で頭に浮かぶ、そういう文章を指すと思う。国際的な読者にとって一番すんなり来る「洗練された英訳」には、編集作業が不可欠だ。しかし、実際に日本の企業のための英訳の仕事の中では、上記のような珍しい注文もある。

逆に、日本の中学や高校の授業で習う、いわば受験英語的イングリッシュにアレルギーの日本企業もある。PRの仕事をしていた頃、日本の大手家電メーカーの海外広報の仕事のトライアルを依頼された。日本在住の米国人英文編集者が新しいPR会社を探していてお声がかかり、試験的に仕事を引き受けたのだ。この大手企業は、米国にも現地法人があり、日本人管理者を駐在させている。

先方の担当者から初めて送られて来たメールを開くと、文の終わりに、外国人男性のファーストネーム(Francois=フランソワ)と日本人の姓が記されていた。私は、「担当者は東京本社に在籍する日系社員なのだ」と思った。海外PRのアカウントだったので、何も思わなかった。さて、実際にご本人と対面する日。やって来たのは、中年の日本人男性2人で、「フランソワ」氏は正真正銘の日本人だった。おまけに私と同じ大学出身の方で、在学中は英語の研究会に所属していたそうだ。同じ研究会のメンバーだったか、と訊かれ、私は「いいえ」と答えた。

彼らは、米国駐在帰りの日本人管理職だった。一緒に来た相棒もメールの終わりに外国人のファーストネーム(Mike=マイク)をサインされる。どうやら米国に駐在した日本人社員は、現地で現地採用者にとって親しみ易い外国名を使うということのよう。しかし、日本に戻って来た後、おまけに他社の人間に送るメールにまでそのようなニックネームをサインするのはどうして?「私はアメリカ帰りです」と知らせるためだろうか?

さて、この企業のプレスリリースの英訳用トライアル原稿を受け取り(翻訳会社に発注)、紹介者である米国人編集者が編集・校正をした。完成品を確認、提出したところ、その日のうちに「フランソワ」氏から電話でお叱りを受けた。提出した英訳の中に、“not only~but also”という「高校の教科書英語みたいな英語が使ってある。こんな日本人的なお粗末な英訳は受け取れない」という内容だった。日本語の原文を読むと、その英訳は適切だ、と私は思った。米国人編集者も、「高校の教科書に出てくる表現だから英語として質が悪いというのはちがうと思う」とフランソワに反論した。結局、価格も折り合わず、この仕事は請け負わないことにし、氏にその旨連絡した。すると、「お前のような小企業が、ウチの仕事を断るなどもってのほかである。こちらが切るまで引き受けろ」という答えが返ってきた。私は上司に事情を説明し、「その価格では弊社で採算が取れません」と、先方にひたすら説明してもらった。

日本語から英語への翻訳の仕事が辛いのは、第一に、翻訳を発注する客が、出来上がった完成品を正しく評価する能力を持ち合わせていないからだ。どんなに素晴らしい仕事をしても、英語がわからない相手には猫に小判。第二に、上記の大手企業のように、海外で仕事した経験を持ち、自分は英語ができると思っている人が、付随的業務として外注するから。こういう人は、翻訳の価格を極力値切ろうとするし、的外れな苦情を言ってくる。

現在日本で管理職に就いている世代は英語があまりできない。彼らは、若い従業員の外国語能力が高くても、それを正しく評価することができない。

地方の百貨店で仕事をしていたとき、両替に来た米国人客に周辺の観光案内をして、少々世間話をした。それを見た定年退職前の管理職の男性が、「スラスラ縦(日本語)が横(英語)になるから驚いた」と私に言った。日本の多くの企業では、英語が話せる、ということは上司に評価されても、英語のレベル自体は評価されない。ひとたび「英語ができる」と判ると、会社は、英語が必要になるたびに「その場しのぎ的に」社員の英語力を利用しようとする。私の場合も、百貨店での職務内容には翻訳とか通訳とか一切書かれていなかったが、東南アジアから来た社長のゲストの通訳とか、海外メーカーからの売り込み書簡の翻訳とか、社歌の英語版を作る(社員の99.9%が日本人なのになぜ必要なのか全くわからなかったが)作業など、何の前触れもなく上司に頼まれた。本来の仕事は売り場担当だったので、それらをやらされる時は売り場から抜け出さなければならなかった。仕事で使える英語力が私に備わっていても、相応の対価を支払おうという姿勢は会社側には全く無かった。翻訳や通訳が一体どのくらい稼ぐものなのかも、彼らには見当もつかなかったはずだ。私は、結局「職務内容と無関係の、英語を使った半端仕事はお断りします」と上司に伝えた。

普段はほとんど英語の必要ない地方の中小企業でも、ときどき英語が必要になることは避けられない。しかし、翻訳とか通訳専門の従業員を雇うほど仕事がない。アウトソースするのは面倒だし、費用もかかる。社内で英語ができる社員がいれば、特別手当や昇給も支払わず、「ちゃっかり使わせてもらう」。大学まで10年間も勉強したのに英語が使えない人がほとんどなのだが、実際にできる人が目の前の現れると、その価値を認めることができない。これも日本人の英語コンプレックスの一つの形かもしれない。

2014年12月 職場で外国語を使う のつづき

ところで、日本の企業で仕事をする外国人の日本語能力に対する評価はどんなものだろう。外国人が日本語を使う場合、やはり「正しく書く」のが一番難しいようだ。英語圏出身の社員たちは、日本語による会話もかなり上手にこなすが、日本語を書くとなると共通の傾向があった。私がいた職場のある日本人社員は、その特徴を持ち合わせた外国人社員を「使えない外国人」と呼んでいた。なぜなら、彼らが書いたビジネス文書を書き直す手間がかかるからだ。その特徴とは、カタカナ英語を正しく書けない、ということ。日本人が使う日本語の文章にはカタカナ英語が頻発する。このカタカナ英語を「正しく」書けない外国人は、職場で「日本語ができる」と認められない。

それでは、このブログを読んでくださっている日本人のあなたに質問です。

1.ロサンジェルス

2.ロスアンジェルス

3.ロサンゼルス

どれが正しいカタカナ表記でしょうか?

カリフォルニア州のLos Angelesは、スペイン語の「ロス・アンヘレス(天使たち)」を英語読みした地名だ。ローマ字読み風にカタカナ表記すれば、「ロスアンジェレス」が一番近い。3の「ロサンゼルス」は、「ゼ」が普通はzeをカタカナ表記した場合に使われるので、この地名には全く相応しくない表記である。実際の発音に一番近くないのが選択肢3。しかし、この選択肢3が最も一般的なLos Angelesのカタカナ表記である。

前にも触れたが、recipeを「レシピ」と決めたのは誰なのだ?英語の発音に近づけようとすれば、「レサピー」の方が適切だし、つづりをローマ字読みにするのであれば、「レシペ」でなければおかしい。「レシピ」というカタカナ英語を、誰も疑問を抱くこともなく受け入れる日本という国が不思議だ。 それに、私が中学、高校の頃は、「レシピ」なんてカタカナ英語は誰も使っていなかった。21世紀になってから購入した英和辞典には「レシピ」という訳語も載っているが。「作り方」とか「調理法」とか日本語で書いても同じく3文字なのだから、わざわざカタカナ英語にする必要あるかしら?

ビートルズで有名なLiverpoolという地名をみてみよう。Liverが「肝臓」という意味のとき、日本語では「レバー」と表記される。「レバニラ炒め」を「リバニラ炒め」という人はいない。同じつづりで同じ発音なのだから、リバプールも「レバープール」または「レバプール」でなければ一貫性がない。「リバー」は日本では、riverつまり「川」を指すので識別のために?それなら「扉のレバーを右に回す」とかいうときのlever(てこ、操縦桿などの意味の単語)は何とする?

First(第一の)もfast(速い)も「ファースト」。Rubber(ゴム)もlover(恋人)も「ラバー」である。だから、ファーストフード・チェーンの「ファーストキッチン」はFist Kitchenなのか、Fast Kitchenなのか?ジャズのスタンダード「ラバーマン」も、「ゴム男」なのか、「愛するあなた」なのか?これほどナンセンスな、しかも厖大な語彙を、表記のきちんとした規則も説明できないまま外国人にマスターせよ、と言う方が無茶苦茶である。

日本人は、外国人の日本語に厳しい。自分たちがマスターできない英語を日本風に都合良くねじ曲げて使っているくせに、外から来た人たちに「正しい日本語」を求める。本来なら、英語を日本語の文章に挿入するとき、英語のまま挿入した方がずっと理に適っている。そんなことするとワードで入力するとき、半角と全角の変換が面倒くさい?そんなことより、これほど規則性、普遍性に欠ける言葉を使っていることのほうが問題である。

他人に偉そうなことを言って完ぺきを求めると、相手も自分に同様の要求をする。日本人の多くが、英語を話せない理由の一つはここにある。ミスをするのが恐いのだ。

職場によって状況は異なるものの、職場でハイレベルな英語を使う従業員が増えるためには、日本人の意識改革が必要だ。

「意識改革」なんて、バックシート・ドライバーには似合わぬ大げさな表現。と自分を笑っていると、11月20日の朝日新聞、そして翌日の21日のジャパン・タイムズ紙に、「いや、大げさでもないかもしれない」と考え直す材料が。前者の記事によると、英検準一級以上(およそ大学中級程度のレベルで、社会生活で求められる英語を十分理解し、また使用できることが求められる)、TOEIC730点以上などの力を持つ英語の先生の割合は、公立高校で53%、公立中学では28%という文部科学省の調査結果が出たそうだ。国の目標は、高校で75%、中学で50%だったらしい。
 翌日の『ジャパン・タイムズ』紙の記事は、下村文部科学大臣が、学校カリキュラムの徹底的な見直しの一環として、英語を小学5、6年の必修科目とすることを提案した、というもの。同時に英語は小学3年から教え始め、中学校では英語の授業は英語のみで教え、高校では、英語討論ができるようにする、ということだそうだ。この提案は、特に2020年の東京オリンピック開催に備えながら、日本の子供たちが国際競争に勝つサポートをするため、と書いてある。とはいえ、新しいカリキュラムが完成し実施されるのは、小学校で2020年、中学で2021年、高校については2022年以降だそうである。これって、2週間のスポーツ行事は、日本の英語教育と何の関係もないってことを証明してません?政府としては、ちゃんと説明できない、またはするつもりがないことは、「2020年東京オリンピック」というキャッチフレーズを持って来てごまかしているだけ。オリンピック招聘合戦の最中、東京からの派遣団が、「オリンピック開催により、東日本大震災で被害を受けた地域の子供たちに夢を与えることができる」と繰り返すのを聞いた。私にとっては信じられない話だった。もし私が、災害による親の失業その他の厳しい状況の中、来年大学へ行くお金もないかもしれない十代の若者だったら、あのピッチはでたらめにしか聞こえなかっただろう。

二つの記事を読むと、中学と高校の先生の範囲で、「国の目標が未達成」という状況が既に存在しているにも関わらず、今度は小学校で教える先生も増やさなければいけないわけで、国の目標と現実のギャップはますます広がる、と考えずにはいられない。

公立校で英語を教えている先生たちの多くが、英検等の英語実力テストを受けたが「英検準一級に不合格」など一定のレベルに達していない、または教職に就く前、就いた後に、こうしたテストを一度も受けた事がない(同記事では受験料の高さが問題の一つと書いてあるが)という状況の何が問題かというと、生徒が「英語の先生は頼りない」と思ってしまうこと。近い将来その先生不信が小学校にも広がるわけだ。大臣、ホントにそれでいいのかね?

やはり、何か根本的にズレている、と感じます。

というわけで、一年間おつきあいいただいた「何でこうなの?日本の英語教育」。専門家たちの面白い提案や行動のおかげで、まだまだネタは尽きそうにありません。2015年もどうぞよろしく。

2015年1月 英語を英語らしく話す?

師走10日に、特定秘密保護法が施行された。その数日前の新聞に、内閣情報調査室が、政府諸機関に対し、海外留学や海外で仕事をした経験のある人は、この法律が定める「秘密」を漏らしやすい、という警告を発した、という記事が載っていた。「確か2013年に東京都教育委員会が東京都内の公立中学および高校の英語教師に3ヶ月の海外留学を義務づけることにしたことについて、このブログでも触れたと思ったけど…」と思って読んでいると、やはり、記事の最後にある大学教授のコメントが載っていて、「政府が、グローバル人材の育成を目指して若者に留学を勧めている中で、その経験が負の要素と見なされるのは、筋が通らない」とあった。そりゃ、そうです。何せ、この法律は、違反すれば10年刑務所に入ることになるかもしれないのだから。外国語や外国の文化を学びに海外で勉強してください、でも帰ってきたら、国家秘密を漏らす可能性の高い人間として扱います、じゃね。あれ?そう言っている安倍首相も、短い期間だけど、海外留学を経験なさっているようですね。ということは、彼自身も同じ扱いを受けて当然ってことになる。この法律のさまざまな問題点は最近ずっと耳にしているわけで、こんな環境で若い人が積極的に海外で活躍しようとするかなぁ、と思います。

外国人や他国で生活した経験を持つ人を脅威と捉えたり、型にはめようとしたりする考え方が、この世の中には存在する。

私が大学生の頃は、TESOL(Teachers of English to Speakers of Other Languages)の先生たちが「英語らしい英語の使い方」を、英語を母国語としない学生たちに教えていた。私も米国の大学で約1ヶ月ばかりTESOLのモルモットになった経験がある。夏期コースの授業の合間に、さまざまなテストをされた。ひとつは面接。確か、3人の米国人教師たちにさまざまな質問をされた。自分が今一番興味を持っていることなど、トピックは特に決まっていなかった。別の機会には、短い英文を読まされ、読む速さをチェックされ、後に続く会話で内容の理解を試された。さらに、個室における教師との1対1の会話。このテストは、終始録音されていて、最初に具体的な内容の会話、次に抽象的な内容の会話と続く。後日、録音を再生し、話し方の改善点を指摘される。先生たちは、とても感じの良い人たちだった。日本の学校で出会った英語の先生と比べれば、ずっと打ち解けやすい人たちだった。

私の担当の教師は、私が「はい、いいえ」で答えられる質問に対し、肯定か否定かを最初に明らかにしないことを問題点として指摘した。例えば、「OOという映画が好きですか」という単純な質問に対し、確かに私は明確に答えることなく、少々批評家めいた説明のような答え方をした。そのようなスピーチパターンが認められると、教師はテープを止めて、「ほら、またやっている」と厳しい口調で指摘した。そして、「はい」か「いいえ」を冒頭にはっきり答えなさい。それから説明しなさい、と教えられた。つまり、私の作法は英語の正しい話し方から外れている、と私には聞こえた。私は、厳しく言われた時、「え?なんでこんなに怒られるの?」と不思議、不愉快だったが、「英語を学んでいる学生」だったので、その指摘を受け入れた。そのことによって、その後私が出会った英語を母国語とする人たちは、私を受け容れ易かったかもしれない。「あいまいで不可解な日本人の典型」という印象を彼らに与えた可能性が低いからだ。

英語のニュース番組で、アンカーの質問に対してコメンテーターが冒頭に「はい」または「いいえ」を明言することは非常に少ない。アンカーは鋭い質問をして事件の真相に迫ろうとする訳だが、答える側としては、灰色のままにしておきたいからだ。このような場合は政治的選択、外交的選択をして話しているわけだ。しかし、視聴者から見ると、そういうコメンテーターは、はぐらかしている、または、ウソをついているように見える。

それから、20年経ち、ジェレミーとニューヨークに住んでいた頃、TESOLの大きな会合が市内で行われ、参加したその教師と再会した。ハドソン川沿いを散歩しながら、私は、彼女に厳しい口調で諭されたことを思い出しながら、「あのとき、こんなことがありましたね」と言った。すると彼女は、 “I’m sorry that happened.” (あのことは、本当に残念です)と言った。彼女の説明によると、あれから教授法も変化し、あのような教え方は、もう行っていない、ということだった。現在は、さまざまな文化的背景を持つ生徒たちがもっと自分らしく英語を話すことを尊重、奨励している、ということだった。

私は、彼女が “I’m sorry I did that.” と言わなかったことに注目した。彼女が残念に思ったのは、「彼女が好ましくない教え方をしたこと」ではなく、「当時そのような教授法が普及していたこと」である。当時の彼女は、TESOLとして教授法をたたき込まれており、それを単に忠実に実行していたに違いない。

人が、ある映画を「嫌いだ」または「好きだ」と明言しないのは、「好きな部分」も「嫌いな部分」もあるから、とか、その人が何についても「好き嫌い」をはっきり言うことを憚る性格であるから、とか色々な理由が考えられる。大学生の頃の私は、どういう訳かリチャード・ギアの顔を生理的に受け付けず、彼の写真が表紙にある雑誌を見ると伏せて置くほどだった。俳優の好き嫌いが自分の作品の好みを大きく左右することを自覚していた。そういうわけで、普段から「好き、嫌い」を明言しにくかった。もし、あのとき、即座に「好きな部分も嫌いな部分もあります」とだけ答えていれば、教師はどのような反応をしたのだろうか、と私は思う。

数年前、日本の相撲界で、横綱の品格が問題になったことがあった。優勝を決める一番を制したある外国人横綱が、勝った直後にガッツポーズをした。スポーツ選手なら誰でもすることだ。翌朝のテレビのワイドショーを見たら、コメンテーターが「横綱の品格」を欠いている、とその力士を寄って集って非難していた。ニューヨークに住んでいる頃から相撲をテレビ観戦し、一度両国で生を観たこともあり、日本でツアーの際は、ホテルで相撲をいつも観ていたジェレミーが、「横綱の品格」って何?と言った。私も、「さあね」と。ワイドショーに出演中の日本人の皆様は、どうやら共通の「横綱の品格」の定義をご存じのようだった。そうでなければ、「ガッツポーズをしてはいけない」という意識の共有はどこから生まれたのだ?

「ガッツポーズをしてはいけない」と、日本のテレビの連中が外国人力士を非難することと、英語でyesかnoの明言を避けた私をTESOLの教師が怒ったことは、何だか似ている。まず、ある国の人が、外国人に対し、「私たちと同じになれ!」と言っているところが似ている。次に似ているのが、教える立場の人間がきちんと説明していない点。当たり前のことだが、外国人に自分の国の文化や伝統について説教したければ、まず、外国人の母国語に訳して説明するのが先。だが、TVの連中はその力士の母国語を、TESOLの先生も日本語を話せなかった。最後に、どちらのケースも、あまり本質的には重要でないことについて騒ぎ立てていること。

私の大学時代の友人の友人が、一度ジェレミーに、「日本の相撲の国技としての重要さ」みたいなことを英語で説明しようと試みたことがあった。しかし、四大出の彼の英語力で、外国人が理解できるような説明は全くできなかった。当たり前だ。日本語でも難しいことなのに、外国語で出来るわけがない。あのワイドショー出演の相撲専門家の方々なら、ジェレミーにどんな英語で「横綱の品格」を説明してくれたのだろう。「ガッツポーズ」は日本語英語で、英語では?というところから始めなければならなかったと思う。

翻訳をすることの大切さは、より多くの人に情報を広める、という一次的目的に加え、訳をする作業の中で、普段は当たり前と思っている自国の文化について改めて考え、そのことによって謙虚になり、相手の気持ちを慮る(おもんばかる)姿勢が生まれることにある。

2015年2月 英語を英語らしく話す? のつづき

参考のために購入した中学3年の英語の教科書の最後の章の中に、「自分にとって英語とは何か」という感想文が載っている。登場人物のひとり(日本人の男子生徒)が、友だちと英語で話すときと日本語で話すときは、考え方や行動が異なる、と書いている。日常的に英語をほとんど話すことのない多くの日本人中学生たちは、これを読んでどう考えるのだろう。

例えば、日本語に「気が変わった」という表現がある。これを直訳的に英訳すると、 “My mind (or heart ) has changed.” となりそうだが、英語でこういう言い方はしない。日本人にしてみれば、「気が変わった」とするのが適当な場面でも、英語を母国語とする人は、大抵、 “I changed my mind.” と言う。休日の朝、「今日は買い物に行こう」と思っていたのに、遅い朝食を食べてソファに寝そべってテレビを見ていたら何だか面倒くさくなってしまい結局行かなかった、なんてことは誰にでも経験があると思うが、こういう時、日本人としては、「気が変わった」という表現がしっくり来る。日本人としては「私」が積極的に「買い物へ行こうという計画を変えた」のではないので、 “I” を主語にした表現は何かちがう、と感じてしまう。しかし、英語では、このような状況も、 “I changed my mind.” である。

どこかへ出かけて思いがけなく知人に遭遇したとき、英語では、 “What brought you here?” と言う。これはそのまま和訳すると、「何があなたをここへ連れてきたのですか」となる。同じ状況のとき、日本人なら、「何でここにいるの?」とか、「ここで何しているの?」とか言う。これを英語に訳すと、 “Why are you here?” または、 “What are you doing here?” となるが、私としては、声の調子等に気をつけないと詮索のように聞こえまいかと心配だ。その人がどこで何していようと私の干渉すべきことではないもんね。その点、最初の英語の表現は、言い得て妙である。主語が “you” ではないので、相手の行動をとやかく言っている印象を与えずに「相手の事情」について訊ねることができるのだ。しかし、日本で日本人を相手に英語で話しかけることはできない。私は一瞬迷ってから、「あら、珍しい人がいる」と、冗談まじりに声を掛けたりする。

英語を学習し始めたころ、どの先生だったか忘れたけれど、日本語の「~を湯水(ゆみず)のように使う」つまり、惜しげもなく使う、乱費する、という意味の表現は、水の乏しい国では考えられない、という話をしてくれた。ハッとさせられる話だった。外国語を学ぶことによって子供たちの頭の中に広がって行く世界は果てしない。

大学受験で世界史を選択すると、歴史のある時点における世界地図を見せられて、「これは何世紀ごろの地図ですか」という問題が必ず出てくる。そのための受験勉強をしながら、国境なんて政治家が勝手に引いた無意味な線だ、と思うようになった。ジェレミーの祖父の生地は、昔はポーランドだったが、今はウクライナだ。ジェレミーの国籍はアメリカだけど、では、彼は一体どこの国の人?

教科書を使って日本の中学生に、ある人の考え方や行動が、話す言葉によって変わってくることを伝えるのは大切なことだ。それは、外国語を勉強する理由を考えるチャンスになるからだ。本来なら、生徒たちが、そのことを実体験として経験することが理想なのに、今の日本政府の方針では、そういう人は犯罪者である可能性が大、ということになるわけだから。

2015年3月 大学入試、自動車運転免許、英語教育

いま中年の大人の日本人であるあなたは、高校卒業を境に英語の勉強をしなくなった可能性が高い。英文科に進学した人や、大学で英語圏に留学した人、外資系企業に就職して、社会人になってから英語を猛勉強しなければならなくなった人などを除き、ほとんどの人は高校卒業と同時にほとんど英語を勉強しなくなったはずだ。大学の一般教養の英語は、英語の勉強と呼べるほど回数もないし、内容も発展しない。少なくとも私の時代はそうだった。多くの日本人にとって英語教育の究極的なゴールは大学入試と言ってもよい。そんなあなたが、中学生の子の親になっている今、お勧めしたいのは、ご自身の大学入試の問題を今一度振り返ること。

先日、新聞に掲載された大学入試センター試験の英語の入試テストをやってみた。私が受けた私立大学受験問題との大きなちがいは、現在の試験には、必ずリスニングの試験があること。私の学生時代は、どのレベルの入試にもリスニングテストは導入されていなかった。

 しかし、進歩はそれくらいで、あとは変わっていない。単語を並べ替えて正しい文章を作り、その2番目と5番目の単語にふってある番号を答えるとか、長文の中の指示語の内容を日本語30字以内で答えるとか、発音の問題では、アクセントのある位置が同じ単語を選ぶとか、である。

おそらく、これらの問題を振り返った大人のあなたは、思ったより難しい、という感想を持つのではないだろうか。こんな難問に正解して合格したのか~、などと感無量?しかし、待てよ。その後、社会に出て仕事を始めてみたら、あれ?アルバイトしている飲食店にやって来た外国人の注文をとることもできない、とか、海外の取引先から訪問客が来ても、満足に社内を案内することもできない、とか、そういう経験をした人も多いのでは。受験生だった頃は、紙の上の問題に正解すれば安心していられたけれど、あれから何十年も経って振り返ると、あんな英語の勉強の仕方に疑問を抱かなかった当時の自分は一体何を考えていたのだろうか、なんて、呆れてしまうかもしれない。

私は、自分が受けた私立大学の入試問題用紙を保管していて、今、目の前に置いてこれを書いている。当時、高校3年の夏休みに400時間受験勉強すれば希望校に受かるという、予備校が発信源の迷信があった。典型的な暗記中心の日本の大学の受験勉強をやった後、「将来、この受験問題を振り返ったら、どんなことを考えるのだろう」と興味本位で封筒に保管しておいてみたのだ。

その入試問題をやってみたが、何だか感心しない。問題を見ても、一体学生に何を求めているのか、さっぱりわからない。入学した頃、級友の中に、入試の英語は満点だったはずだ、と自慢気に話していた学生がいた。彼とは一般教養の英語の授業で同じクラスだったのだが、英語はまったく話せなかった。キャンパスで私が海外からの留学生と話していても、絶対に近寄って来ない人だった。そんな人が優秀な成績を出せるテストだったわけだ。

例えば、長文問題のうちの一つは、約400語の文章に出てくる7つの進行形の動詞が抜き出されており、それを正しくはめ込み直すという問題だ。それらの動詞のうち3つは、stay、wait、try、という中学の教科書に出てくるが、この長文の中では熟語として使われていて直後の前置詞や補語が印刷されている。別の2つの動詞は、dropとtidyで、辞書では口語として出てくる熟語を正解することになる。残りの2つの動詞は、意味を知っていれば間違えにくい文脈だ。

その後の設問では、今度は逆に動詞が印刷されていて、熟語として直後に続く前置詞を選ぶ。その中の1つは、動詞makeを使った熟語で、辞書を見るとその熟語には17個の意味(用法)があり、正解の用法はその8番目に出てくる。ジェレミーにこの問題を見せると、この熟語がこの意味で使われるのを、生涯で一度も聞いたことがないという。私も知らなかった。おそらく受験した当時も知らなかっただろう。つまり、この問題を私が正解したとしたら、消去法で答えを決めたにちがいない。選択肢形式だからこそ成立する問題だ。

私が購入した10冊の教科書(中学1年から高校3年までの会話、作文、文法、リーダーを含む)の新出熟語にざっと目を通したけれど、正解とされているこれらの熟語を見つけることができなかった。センター試験の問題にも、教科書に出てこない熟語を知っていると正解し易い語順並べ替えの問題がある。ただ、問題数は少ない。

こういう問題を作る大学から受験生へのメッセージは何だろう。

1)辞書をすみずみまで読んで、熟語を可能な限り暗記せよ。または、受験参考書に掲載されている単語や熟語はとにかく丸暗記せよ。

2)ウチの大学にはこれまでに海外生活をしたことがある、または、塾の勉強もできる余裕のある優秀な学生以外は必要ない。

3)これらの熟語は知っている必要もないし、おそらく知らないだろうが、選んだ選択肢が幸運にも正解であれば、ウチの大学に入れるかもしれないよ。

4)単語や熟語はすべて暗記できるものではないので、知識を基に推測しながら理解できる生徒を合格にしたい。

 どれが中っているでしょうか?

3月17日のNHKニュースで放送していたが、全国の高校3年生7万人の英語力(読む、書く、話す、聴く)をテストしたところ、高3 卒業レベルとされている英検準2級から2級の力を持っていない生徒が90%以上という結果が出たそうだ。特に、「書く」と「話す」については、そのレベルに達している生徒の数は、15%以下だそう。他のチャンネルの同じニュースでは、この調査で成績が悪い生徒ほど英語が嫌い、という結果も出たそうで、その理由は、「単語をたくさんおぼえるのが大変」という生徒と「日本から出ることはないと思うので」という生徒が映っていた。でも、これってずっと昔から同じじゃないかしら。去年書いたが、ジェレミーも高校のフランス語の授業は全然真面目にやらなくて、その理由は、「アメリカから出ると思っていなかったら」だったし、「単語をおぼえるのが大変」というのは、正直、私のクラスメートもよく言っていた。国語で漢字を覚えるのが大変、社会で年号を覚えるのが大変、というのとあまり変わらない。別に英語特有の理由ではないだろう。大体、国がこの調査を実施した理由は何なのだ?日本の英語教育がすっかり改革され、その効果を調べるために、というのであればわかるけれど、基本的に「何でこんなに変わらないの?」というのが現状なのだから調査しても劇的な変化など望めない。

2015年4月 大学入試、自動車運転免許、英語教育 のつづき

思うに、日本の英語教育に限らず学校教育は、実生活との関連づけに失敗していることが、その大きな問題なのでは? 

去年の回で、「日本人は英語ができなければ食べていけないという状況にならなければ英語を真剣に勉強しないだろう」という塾の先生のご意見を紹介した。しかし、それは英語をあくまで学校で教わる学科として考える場合ではないのだろうか。

多くの日本人が自動車運転免許を持っている。公共交通機関が存在しない人里離れた所に住んでいる方を除けば、運転免許を持たなければ死んでしまう!という人は、車の運転を仕事にしている方々だけだと思うけれど。私も、ウチに車はなかったし、横浜で生活してゆく上で全く必要なかったけれど、運転免許を取得した。自動車運転免許には、身分証明書として使えるという利点の他に、海外を旅行するときにも便利だ。日本の免許があれば、国際免許が発行されて、世界100カ国以上で車を運転することができる。これは英語が話せることと似ている。つまり、基本の文法を学び、実技ができれば、日本以外の多くの国でコミュニケーションできる。英語の学習は、自動車免許取得と同じである、と考えると、文法をどのレベルまでどのくらいの期間で教え、どんな実技試験をすればよいか、想像しやすくなりません?ほとんどの日本人の場合、学科は合格、でも実技は不合格。まだ運転してはダメなのだ。

考えてみると、英語が全然できない日本人に国際免許を発行するのは理に適っているのだろうか。そんな日本人が知らない国の人の少ない通りで交通事故を起こしたら、救急車を呼べるのだろうか?海外の皆さん、くれぐれも日本人の国際免許ドライバーの車に轢かれないようにご注意ください。あなたが血を流して倒れていても、英語が話せないので助けを呼べないかもしれません、なんてね。

今、ご自分の子供が学校で英語を勉強しているあなた。あなたは、海外で、英語で救急車を呼べますか?もし答えが「いいえ」であれば、ご自分が合格した大学入試の英語のテストを振り返り、6年間の英語の勉強はおそらく無駄になった、と認めましょう。そうしなければ始まらない。


では、次に考えるべきは何だろう。運転免許取得では、交通法規および乗用車の操作方法をおぼえるために一ヶ月かかるとして、問題は、英語の基本文法および英会話の実技を習得するために一体どれくらい時間を費やすべきか、ということだ。前の回でも書いたけれど、私は、中学3年間で英語を集中的に勉強し、高校以降は、選択制にするべきだと思う。これについては、公立高校で使っている教科書を見ながら考えてみようと思う。

2015年5月 英語を使うときも常識を保つ

横浜の、あるグローバル・チェーンホテルのトイレに入ると、便座を挟んだ壁に複数のサインがある。まず日本語で「自動洗浄で清潔・節水」とあり、その真下に理解不能な英語で “Saving water and sanitized by switch” とある。その下に、もう一つサインがある。まず日本語で「使用後、自動的に洗浄します。トップに手を近づけると自動で水が流れます」とあり、英語で “Flushing is carried out automatically as you leave. Manual flushing is also available by placing your hand on top of the sensor.”と書いてある。最初の「清潔・節水」サインの英語版については、丸ごと取り外すことをお薦めするが、次の長たらしい英文については、本来なら“Automatic Flush” または、“Flushes automatically” と書けば済むことだ。後半については、センサーに手を近づけるのであって、「手を載せる」または「手でセンサーに触れる」のではないから、“placing your hand on top of”は正確ではない。

ぜこのサインを引き合いに出したかと言うと、日本の英語教育の大きな課題のひとつは、今、あのホテルのサインに実際に使われている英語と”automatic flush”という2語のみから成るサインの間の溝を埋めることだ、と言っても過言ではないから。しかし、現在の日本の公立高校で使われている英語の教科書を見る限り、このギャップが埋まるどころか、逆に深まっている。なーんて書くと、また大それたことを言い出すかのようであるけれど、私の言うこの「溝」というのは、なんのことはない、「普通の人のタダの常識」を指す。

私が子供の頃の日本の公衆トイレは、ほとんど和式トイレで、用を済ませると金属製のレバーを足で踏んで水を流すというのが当たり前だった。それがいつの間にか洋式トイレに換わり、ある日、水を流すためのレバーもボタンも見当たらないSFみたいなトイレが現れた。「自動洗浄トイレ」というサインが目に入ったものの、半信半疑で便座から立ち上がると水がザーッと流れた。つまり、あのホテルでトイレを使う人が、日本人であろうと、自動トイレが存在しない国の人であろうと、必要な情報は、「自動洗浄」という部分のみ、ということになる。用を済ませてから便座に座り続ける人は、映画『リーサル・ウェポン2』のマータフ巡査部長(ダニー・グローバー。便座から経つとトイレに仕掛けられた爆弾が爆発してしまう)くらいしか思いつかないもんね。

日本人に自動洗浄の日本語版サインを見せて、同じ場所に付ける英語のサインを考えてください、と言うと、多くの人が高校の英語の授業で繰り返しやらされた「空欄を埋める形の逐語訳」に取りかかるはず。

「使用後、自動的に洗浄します」の主語は?使用するのは「お客様」なのに、自動的に洗浄するのは「お客様」じゃなくて「トイレ」。あなたなら最初に書く英単語は何にしますか?「トップに手を近づけると、自動で水が流れます」では、手を近づけるのは「お客様」で、「流れる」のは「水」。「トイレ」というモノが「洗浄する」という動詞をとるのはおかしい、と難しく考え、「洗浄が実行される」と受動態に置き換えたりして、”Flushing is carried out” などと書いてしまう。 “Flush”は、「水がドット流れる」という意味の自動詞もあるので、そんな作業は必要ないのにね!笑えるのは、私が使っているロングマンの現代英語辞典の “flush”の例文は、The toilet won’t flush; I’ve tried flushing it several times, but it won’t work. となっている。「トイレが流れない。何度か流そうとしたけど、ダメだ」という意味だ。

高校の教科書を作る先生たちは、時制、関係詞、受動態、分詞などと難しい日本語の文法用語を掲載し、その使い方を叩き込もうとする。生徒は、印刷された英文を読み、それと同じ意味になるように、与えられた表現や文法を使って別の文章を完成させる。載っているドリル問題を見ると、多くの場合、文章の最初の一語は既に印刷されているか、または、選択肢の中から選ぶ形になっている。つまり、高校生たちは、自分が発信する英語の最初の一語(多くの場合主語)を決める訓練をほとんどしない。主語を自分で選ばないと、正しい動詞の使い方も学べない。

さて、トイレのサインに戻ろう。実は、この場合、主語なんて必要がない。第一、照明が薄暗く調節されたトイレの壁面にごちゃごちゃと長い文章を表示することに意味があるだろうか。常識的に考えれば、お客様に必要なのは「自動的に水が流れる」という情報のみである。もし何らかの理由でセンサーが作動せず、自動的に水が流れないときに客が必要とする情報は、「センサーの上に手をかざすと水が流れる」だろう。だから、 “Automatic flush”というサインをお客様の目線の位置に、そして “Hold your hand over censor to flush.”というサインをセンサーの位置に付けておけば済む、と考えるのが当たり前なのだ。

公立高校の英語の教科書を見ると、作文とか表現とかの勉強と称して、文法を教えているのだが、その内容は、私が中学1年の英語の授業の冒頭で習った英文構成に始まる。私は、中学1年の1学期の英語の授業で、動詞にはbe動詞と一般動詞があり、さらに他動詞と自動詞があり、などと黒板に文法用語が並んだだけですっかり混乱してしまった。そうこうするうちに中間テストがあり、70点ギリギリの成績をとるのがやっとだった。1つ上の姉に見せたところ、「まず、1つの文章には主語と動詞を1つずつ書く」のだ、と教えてくれた。その一言で私は、「なるほど!」と合点が行き、その後、英語がとても簡単になった。英語では、何よりもまず主語(誰、何が)と動詞(どうする、何である)を明確にすることが大事、というコツが分かったのだ。こんな簡単なこと、先生、どうして中学1年生にうまく説明できなかったのだろう。そして、今のシステムでは、それを教える時期を高校1年まで遅らせている。なぜ?

2015年6月 レッスン1に欠けているもの

公立中学校1年生の英語の授業のレッスン1の内容は、

「私は~です」つまり、I am XXX.
「あなたは~です」つまり、You are YYY.

である。このXXX とYYYの部分を補語と呼ぶことを中1の授業で説明してしまうと、子供たちは混乱し、文法にばかり気をとられてしまう、という懸念からだろうか、この「補語」を含んだ英文構成の説明は高校1年へ先送りされている。しかし、「補語」なんて言葉を出す前に、この教え方には大きな問題がある。

ジェレミーが使っている日本語初級の教科書に、

 A:「あけみさんは、京都の出身ですか」
 B:「いいえ、ちがいます」

というのがあって、日本語の勉強を始めたころ、このダイアローグを読んだジェレミーは、人物Bがあけみさん本人であるとは夢にも思わず、実はそうであると知って大変驚いた。ムリもない。この二行をそのまま英語に訳すと

 A: Is Akemi-san from Kyoto?
 B: No, she isn't.

となるからだ。英語を母国語とする人は、なぜ “Are you from Kyoto?” と訊ねないのか、さっぱりわからない。日本人は、滅多に話し相手に対して「あなた」と言わない。特に目上の人間に対して「あなた」と言うことはほとんどあり得ない。にもかかわらず、中1のレッスン1で“you” イコール「あなた」と教えられる。すると授業で先生と会話の練習をしてみよう、などと言われても、生徒としてはとても抵抗がある。目上である先生を「あなた」呼ばわりすることになるからだ。私も中学の授業で“you”は「あなた」と教わり、アメリカでは幼稚園の児童でも大統領を「あなた」と呼ぶことができる万人が平等の国だ、なんて勘違いしてしまったものだ。

中1の英語の授業のレッスン1で、I am と You areを教えるときに大切なのは、be動詞とか補語とかの説明ではない。そんなことより、英語では、自分に関して I という主語のない文章は成立しないこと。それゆえ“I”つまり「私」が行動したり言葉を発したりすることによって関わりを持つその相手 として“You”が出現するということだ。

日本人は、子供の頃から主語のない生活をしている。例えば、

 子供:「遊びに行ってくるね」
 母親:「夕飯までに帰っていらっしゃい」

これは、書き言葉で説明すると、子供は「ボクはこれから外へ遊びに行きます」と言っているのであり、母親は「私はあなたに夕飯までに帰ってほしいです」と言っている。しかし、実際に発せられた言葉には、「ボクは」という主語はないし、母親のセリフにしても、「誰が」夕飯までに戻れ、と言っているのか明確な主語はないため、もしかすると「夕飯までに帰って来ないと怒るのは実は母親自身ではなくて父親なのかもしれない」という可能性もある。アメリカ人の子供と母親の会話なら、

 Kid: I’m going out to play.

 Mom: I want you to be home for dinner.

なんてことになり、誰が誰に対して何を言っているのかが明確になる。

このように、レッスン1においては、英語では“I”とか“You”など主語のない文章は通常成り立たないことを体で覚えるために、まず、自分が行動の主体であることを示す“I”と、自分の行動や発言が関わりを持つことになる相手の存在を示す“you”を使う感覚に親しまなくてはね。

日本人は、行動の主体が「私」であることを特に強調する必要があると感じるとき、主語の「私は」という言葉を発する。例えば、殺人の容疑をかけられて「私は殺していません」というとき、さっきの「遊びに行ってくるね」のような主語無しモードで「殺していません」という人は少ないだろう。殺された人が男性だったとして、このセリフを英語に訳すと、“I didn’t kill him.”となる。それでも刑事に「やったのはお前だろう」と言われ、「私じゃありません」と言う。さぁ、中1の皆さん、この必死のセリフを英訳しましょう。レッスン1の知識では、「私は~です」が “I am XXX.”で、「私は~ではありません」が“I am not XXX.”だから 「私じゃありません」の英訳は“I am not!!”となるはずだ。しかし、これは間違い。先ほどの「私じゃありません」というセリフは、「殺したのは、私ではない」という意味であって、「殺したのは」という主語がまた抜けている。しかし、日本人は普段から主語ナシの言葉を発しているという意識が薄いので、それを補わないと英語の文章が作れないという感覚が理解しにくい。英語では「殺したのは」という部分が“it”となり、“It isn’t (or wasn’t) me.” となる。

では、「私は犯人ではありません」と言い換えて、“I am not…”という形を使って英訳してみよう、と中1の子供たちにやらせてみると、ン?“I am not killer.”なんかおかしいなぁ。そうだ、冠詞が抜けている。“killer” は単数なので、単数を意味する“a”を補って“I am not a killer.” さあ、できた!と思いきや、これも実は大間違い。“I am not a killer.”は、「私は人殺しではありません」つまり、私は人を殺せるような人間ではない、という意味。「私はこの殺人事件の犯人ではありません」と言いたければ、“I am not the killer.”としなければならない。

これら中1のレッスン1で遭遇する主語の問題と冠詞の問題こそ、多くの日本人が10年以上かけて学校で英語を勉強しても、なかなか理解、習得できない難題だ。実際、NHKの夜のニュースを英訳している日本人の通訳者の人たちも、冠詞の使い方は間違いだらけで、ジェレミーも、「なぜそこにthe を入れるの?」とか、ほとんど毎晩のように気付く。しかし中学の教科書を見ても、文法や英語表現を詳しく教えるはずの高校の教科書を見ても、冠詞に割いているページは非常に少ない。私が見た限り、3冊の高校の教科書のどれも、半ページから多くても1ページ以内しか使っていない。

このように、公立中学や高校の教科書におけるレッスン1と関連する英文法の教え方は、全くとんちんかん。日本人が英語を使うために把握するべき語感のギャップとでもいおうか、それを子供たちが初めて体感するプロセスに全く注意を払っていないのだ。

2015年7月 生徒型マインド

英文法の学び方をどうしたらいいのか、と考え続ける前に、今後も「バックシート・ドライバー」を書く意味があるのかどうか、と開始から18ヶ月目にして立ち止まってみよう。だって、日本の英語教育がすっかり改善されたら、こんなの書いている意味がないもんね!しかし、残念ながら、続ける意味はますます大きくなっている模様。

先月6月6日The Japan Times紙の一面に、“Ministry announces new junior high school English exam”とある。これは、文科省が新しい全国規模の中学3年生用英語試験を開始するという記事。2019年度に始まるそうだ。さらに各県が英語スキル改善の目標を定め、その結果を公表するというもの。2024年までに、少なくとも英検3級レベルまたは、ヨーロッパ言語共通参照枠(Common European Framework of Reference for Language Index)のA1レベルに、生徒の70%を合格させる、という計画だそうだ。2014年の調査によると、このレベルを有する日本の中学3年生は34.7%なのだそうである。高校3年生の目標は、A2およびB1レベル(興味のある日常のことに関する文章の組み立てと理解)に合格する生徒の割合を70%にすることだそうだ。専門家や現場の教師たちは、上から命令するやり方は古い、これ以上テストの強制による学力向上はない、とか、これらのテストで話す力を試すことは困難だという意見が出ているらしい。

その前の月の5月26日の同紙の記事。日本の英語の先生で上級英語スキルの何らかの認証を有する人の割合は、高校教師で50%強、中学では30%以下という数字。2014年の調査によると、公立高校英語教師の55.4%が英検1級または準1級取得者、もしくはTOEICスコア730以上だそうで、中学では28.5%と低い。文科省は、2017年までにこの割合を公立高校で75%、中学で50%まで上げることを目標としているそうである。これらのテストを実際に受けた事のない先生も多いそうなので、これらの数字はあまり当てにならないそうだが。

同じく5月24日には、数年前に「社内コミュニケーション英語オンリー」方針を導入した楽天が、従業員のTOEIC平均スコアが802.6になったと発表したという記事。2010年の平均は526.2点だったので、これはすごい!ということらしいが、この記事について31日の投稿欄に、“Rakuten’s English ability overrated”という匿名さんからの手紙。「そんなに従業員の英語レベルが向上したのなら、なぜ楽天の英語版ウェブサイトの英語はこんなにひどいのか」という内容。へんてこ英語の具体例を挙げて反論している。その例とは、バドミントンのラケットの宣伝で、”History of the narrow shaft and power-ups Trivoltage system in the smash energy increases.” おー??これでは英語ができる社員が大勢いる会社、という証拠にはならんかも。

さらにその前の月、4月19日の共同ニュースによると、トニー賞候補になったミュージカル『王様と私』に出演している日本の俳優渡辺謙の英語は、発音が悪くてセリフや歌詞が聞き取れない、という記事。

あれまぁ、毎月のように「日本人は英語ができません」という合唱が、国内外から聞こえて参ります。

渡辺謙のニュースですが、『王様と私』を私は観ていないけれど、彼の英語の発音が悪くて歌の歌詞や劇中のセリフや歌詞が聞き取れない、という米国の批評家の話が本当であれば、彼は抜擢されるべきではなかったと思う。お金を払って観に(聴きに)行った人たちにとっては、英語が聞き取れなければ歌や劇の価値は無くなってしまう。やはり、「手本となる」立場としてご自分の英語スキルを綿密に検査してから、舞台に立つべき。日本のジャズ歌手の中にも英語で歌う人は多いけれど、通常、発音が悪くて何を言っているかさっぱりわからない。ジェレミーにも歌詞が聞き取れない。これは、ほとんどの日本のポップシンガーが英語で歌うときも同じだ。

ところで、お役人の相変わらずのテスト大好き現象はどうだ!お墨付きのテストで高得点を取るために生徒を勉強させ、その効果が上がらないとまた別のテストを受けさせる。とにかく、生徒をテストするのが挨拶がわりみたいな方たちです。私の親戚にも大学教授と名の付く人が故人も含めて3人いるが、彼らにも、会話をクイズで始める、という共通点がある。幼い頃から、何年に一度か会って話す機会があると、必ず「~って知ってる?」と、私をテストするのだ。質問のカテゴリーはいろいろである。例えば、「MBAのAって何ていう単語の頭文字?」とか、「日本に百歳以上の高齢者は何人いる?」とか、久々に親戚が集うその場の会話とは何の関連もない質問をし、正解・不正解にかかわらず、レクチャーが始まる。私は、彼らを「教授型マインドな人たち」と考えている。それに対し、そういう質問をされて「また始まりました~」とウンザリしている私みたいな人は「生徒型マインド」の持ち主。とすれば、英語テストの大嫌いな多くの日本の中高生は、「生徒型マインド」の持ち主のはず。

ところが、そうでもない。日本人は、日本人同士や英語が分からない人の前では「生徒型マインド」なのだが、英語が話せる人、英語を母国語とする人の前では、「教授型マインド」になってしまうようだ。生徒型マインドの時は、ミスをしても発音が悪くても気にしない。あれだけへんてこりんな英語をTシャツの胸に堂々と印刷して平気なのだから、日本人は英語ができない、または間違った英語を使っても気にしない、と言われて当然だ。しかし、いざ外国人と会話するという場面になると、日本人は急に無口になる。突然、テストで完ぺきを求める「教授型マインド」に早変わりして、自らの英語力を厳しく評価し、文法の間違いや日本語訛りの発音を恥じ、全く英語を使えない。

以前、ニューヨークで、日本人相手の運転免許取得講座に参加したとき、ニューヨーク在住の日本人教官が興味深い話をした。アメリカでは道路で渋滞に遭うと、ほとんどのドライバーが、「早く動け!」と一斉にクラクションを鳴らし始めるのに対し、日本では、渋滞に巻き込まれたドライバーがクラクションを鳴らすことはほとんどない、という話だった。その教官は、それを「日本人ドライバーは、多くの人が自分は親、または手本を示す立場である、という意識を持っているが、アメリカのドライバーは、自分は子供という意識を持っていて、「この渋滞、誰か何とかしろ!」とクラクションをガンガン鳴らすのだ、というような説明をした。

確かに、日本では毎年「ゴールデンウィーク前後の大渋滞」がテレビで映し出されるが、「クラクションがブーブー鳴っている」ことはない。米国の映画で大渋滞が起こると、必ずドライバーが窓を開けて怒鳴ったり、あちこちでクラクションが鳴り始めたりする。面白い違いですね!

多くの移民が共生する米国のような国では、車を運転するにも英語を話すにも、心構えは「生徒型もしくは子供型」。ミスしてもオーケー。私に責任はありません。一方、英検一級、TOEIC何点、と御上に認定証をもらうべく英語を勉強させられる日本人は、ミスは許されない、できないのは恥と、英語に対する姿勢が「教育ママ型もしくは教授型」。みんなの平均的英語力が低いので、自己満足型の人はおかしな英語を平気で使うことになり、真面目なタイプは、自信を喪失し、実用できない。

渡辺謙や、プロとして歌詞やセリフを英語で伝えなければならない歌手などを除き、普通の日本人が英語を使うときは、相手が日本人でも外国人でも、「生徒型マインド」を大切にしたい。日本人がなぜ英語を使うのか、またどんな時その必要があるのか、と自問すれば、英語をどれだけ、どんな風に学べばよいか、おのずと答えがでるというものだ。

今の時点で、日本で英語を学ぶ生徒たちが生徒型マインドをしっかり維持するためには、教授型マインドのいわゆる専門家たちの影響を最小限に抑えるのがベスト!少なくとも、文科省が「渋滞でクラクションをガンガン鳴らす人」を積極的に採用し始める日が来るまでは!そう考えると、日本で英語必修を中学3年間集中にするひとつの理由が見えてくる。必修英語が中学で終われば、生徒たちは子供型マインドのまま英語に接することができ、結果として、のちの人生において、英語を使う日本人が増えるかもしれない。英語の学習が楽しいと思っている時点で必修が終わる制度下であれば、常に生徒型マインドで英語に接することも可能だろう。そうすれば教科書の単語や熟語をいくつ覚えているか、ということより、知らなければ辞書で調べることの方がずっと大切だ、と皆が考えるようになる。高校に入っても英語を選択する生徒には、職業につながる専門的な各種英語コースがあればよいのだ。

2015年8月 目的と方法 1

さぁ、それでは、中学3年間でどんな風に英語を習得すればよいのか考えてみるけれど、方法を決めるにはまず目的がはっきりしなくてはならない。運転免許の教習所は、その目的がはっきりしている。自動車操作方法を教えることと、事故を起こさずに運転するために交通法規や運転のマナーといった知識を与えることだ。受講者は、一歩間違えば人を殺してしまう自動車運転の責任について学ぶ。

日本の中学生は何のために学校で英語を学ぶのだろう。今日の日本の英語教育で叫ばれているのが、プレゼンテーション能力。これは、グローバル企業のミーティングや国際会議などで必要になる力だ。日本人にはこれが欠けていると言われる。生徒たちの頭の中に発表したい内容がないからなのか、表現力の乏しいだけなのかよくわからんが、現行の英語教育が「生徒が社会に出てから海外へ向かって英語で発信する」ことを目指しているのは間違いない。しかし、2020年東京オリンピックの新国立競技場の件はどうだ。一国の首相ともあろう人間が、国際コンペに出席し、おぼつかない英語で他人の書いたスピーチ原稿を読み上げ、バカ高い新国立競技場も含め「素晴らしいオリンピックを私が保証します」という大風呂敷を広げた挙げ句、白紙撤回し、肝心の釈明や経緯に関しては、一切ご本人から英語による説明がなかった。これでは、中学生が「英語プレゼンテーションというのは、他人が書いた美辞麗句ばかりの原稿をもっともらしい身振りで読み上げること」と誤解しても仕方ない。確かあの時、日本の派遣団は、英語だけでなくフランス語も交えて、「東日本大震災の被災地の子供たちの希望となる、東京における二度目のオリンピックを!」というようなプレゼンをしていたが、やり直しとなった競技場のために消えた国民の税金60億円をどう説明するのだ。自ら外国語でプレゼンしたのだから、「いいえ、あれは通訳の間違いです」なんて言い訳することはできませんね!

自分で考え、自分で書き、自分で話す、という作業は母国語でも難しい。公の場でのプレゼンテーションの責任を取るのは、それにもまして難しい。私は、日本人の中学生が英語を学ぶ目的のひとつはそれを理解することだと思う。全く考え方の異なる人たちの言葉を使ってコミュニケーションすることが、自分にどんな影響を及ぼすかを、身をもって体験するのだ。一度英語を話すようになれば後戻りは出来ない。日本語しか話さなかった自分には戻れないのだ。その体験こそが義務教育英語の目的であるべき。大切なのは自分の言葉でコミュニケーションすることであり、それをスキップして信頼できるプレゼンができるようにはならない。つまり、まず、英語で学校の友だちと約束し、それを破れば謝ることを教えるべきなのだ。プレゼンテーションの技術なんて、既に英語を流暢に話せなければムダ。

なんて書くと、大げさな話に聞こえるが、そんなことはございません。まず私が最初に中学生にお勧めしたい英語学習法その1は、小学館の『英語図詳大辞典』(A Visual Glossary of the Physical World--What’s What)と研究社の『英語の数量表現辞典』(Kenkyusha’s Guide to Quantitative Expressions in English)を手に入れることだ。

前者の4ページを開けると、「この辞典の使い方」と書いてあり、下に、「人間/生物(=Man/Living Things)」という分類が例示してある。さらにその下に、「四肢(=the extremities)」とあり、人間の足首から下の絵が描いてある。そして、「足 (= foot)」とあり、アキレス腱、足指の爪、足の裏、かかと、足関節、足の甲、と足の各部分を線で指しながら、日本語と英語の呼び名を載せている。横には解説(=caption)として、「足跡はfootprintという、扁平足はflatfoot/splayfootという」などという関連の解説が載っている。この大辞典は優れもので、この世の中に存在するありとあらゆるモノの種類や部分の呼び名を絵や写真を見ながら英語と日本語の両方で具体的に学べる。この辞典の頻用を勧める理由は、英語を英語のまま頭に入れる習慣がつくことだ。2014年10月の回で触れたけれど、私には、英語を母国語とする人と同様に英語を使えるようになるために、日本語を排除して英語を理解する練習を意識して行った時期があった。この辞典を持っていると、眺めているだけで英語から絵を思い浮かべる脳の回路を作るきっかけになる。英語のすぐ横に日本語が載っているけれど、読者の目は自然に絵や写真と英語の間を行ったり来たりするようになる。

図詳大辞典で、「競技場」と引いてみる。すると、「ラグビー」とあって、スクラムを組んでいる選手のイラストやルールの図説と共に、競技場(= playing enclosure)とある。次のページは「アイスホッケー」で、ゴールとヘルメット等を着けたゴールキーパーの写真の解説の横にリンク(= rink)の図説がある。その次はバスケットボールでコート(= court)、次は、サッカーで「サッカーフィールド」と書いてある。中学生が自分の好きなスポーツについて関連用語を英語で言える、書けるようになるための近道でもある。

後者の研究社の数量表現辞典の目次を見ると、基本的な数え方、「以上」「以下」の表現、順位・順番の表現、割合、平均、方向・向き、期日・期限の表現、回数・頻度の表現、料金・価格、比較・差・増減、服のサイズなど、日常的に頻用する数量関連の英語表現をトピック別に参照できるようになっている。とても役に立つ、使い易い辞典であることが一目で分かる。この辞典を使えば、「新しい五輪競技場はもともと高すぎた」とか、「建築費が見積もりの2倍以上に膨れあがったのは誰の責任か」という言い方もすぐに英語にすることができる。英語で会話しようとしている日本人によく見かけるのが、「5年に一度」、「10%増」、「最南端の島」、「しあさって」、「世界で一番」など、日常会話で頻用する表現が出てこない人たちである。これは、実用の視点から整理して学んでいないから。2014年1月の回で触れたが、前、後ろ、横、というようにまとめて覚えるべき「具体的なことを示す」基本の単語群があって、それはまず中学の最初の段階で早く触れるべきなのだ。車の教習でギアの前進(D)だけ教えてバックの仕方(R)を教えないなんてことはあり得ない。それと同じだ。研究社の数量表現辞典なら、テーマ別に掲載されているので、英語を使う際誰もが必要とする表現を簡単に調べることができる。義務教育英語の必需品だ。

日常会話もままならず、ましてや自分の言葉に責任を持つつもりなどさらさらないのに、プレゼンテーション能力があるふりをする。そんなへんてこな英語の使い方をする日本人にならないためにも、まず身近なところから英語を学べるこれらの辞書を手に入れましょう!

2015年9月 目的と方法 2―最初は、教科書は要らない

日本の義務教育の英語の授業で大勢の人が実用的な英語を身に着けることができない状態が何十年も続いているのは中学生にも分かっている。だから最初は教科書を使わないで、生徒たちに「自分で教科書を書くつもりでノートを取りなさい」と言った方が納得してもらえるのでは?

さて、普段スポーツに熱中している生徒とブラスバンド部で楽器の練習に励んでいる生徒が使っている語彙には隔たりがあるだろう。個人の興味や語彙を尊重し、初めての英語の授業をなるべく個人的な体験にする。そこから、自分と英語の接点を見つけることのできる生徒も多いはず。

まず、生徒たちに具体的なことを表現する英語を使ってもらう機会を設ける。例えば、自分の好きな場所の写真を一枚用意してもらう。ブラバンの練習をしている音楽室かもしれないし、野球場かもしれないし、家族旅行で立ち寄った場所かもしれない。最近の中学生は皆携帯電話を持っているので簡単なことだ。そして、その景色(場所)の写真を英語で説明してもらう。先生は、“This/That is― (これ/あれは~です)”と、“There is/are― (~があります)”と、“I like―because― (私は~が好きです。その理由は~だからです)” という3種類の英語の表現を用意し、生徒たちにそれらを使うよう伝える。さらに、ジェスチャーや顔の表情など日本語以外のすべてを駆使してコミュニケーションするよう伝える。生徒たちはサークルに座って、お互いの顔が見えるようにする。数人の生徒に「お気に入りの場所」を説明してもらったら、次は、まだ説明をしていない生徒のお気に入りの場所を、他の生徒に当ててもらう。このとき、生徒たちは「その場所には~があります」という表現から、「~がありますか?」という質問をする表現が必要になる。生徒たちは疑問文の作り方を考えなければならない。教師は、「疑問文は、There is をIs thereとひっくり返す」と簡単に説明する。尋ねられた生徒は、Yes または Noを使って質問に答えなければならない。そのうち、「その場所は学校から近いですか」、「なぜその場所が好きなのですか」など、複雑な質問をしたい生徒も出てくるかもしれない。子供たちはちょっとイライラするだろう。帰国子女の生徒や英語塾に通っている生徒がクラスに存在するのだから、教師は、生徒同士の助け合いを促す。先生は出てきた質問を英語でボードに書いていく。生徒はそれを参考にしながら、文法を知らなくても作文しつつコミュニケーションする作業に慣れる。最終的には、 “Is it―? (「それ=あなたの好きな場所」は~ですか)という答えを当てる表現にたどり着いて、“it”の使い方も覚えることができる。私の最初の英語の授業がこんな感じだったら、平叙文と疑問文が楽しく理解できただろうなぁ。さらに写真を使って位置を表す前置詞も学ぶことができるし、日本人が混乱し易いaboveとonの違いなども視覚的に学べる。こういう授業を3、4日続けたあと、使えるようになった表現を振り返って文法の説明をし、納得してもらうという教え方にする。この方が絶対にわかりやすい。

この授業をやると、おそらく、生徒たちは嫌がってなかなか英語を発音しようとしないだろう。日本人の生徒は、英語担任やクラスメートの英語の発音がどの程度英語らしく聞こえるかということに興味津々だ。英語担任の発音が日本語訛りだと、生徒たちは「なんだ、オレの先生大したことない。どうせ英会話はできないだろう」と思う。私は、英語の発音を聞いたとおり真似するのが得意だった。教科書の文章を授業で初めて音読させられた時、クラス全体が「お~っ」とどよめいた。英語らしく発音できる奴への冷やかしである。日本の学校では、こういうのが嫌で、わざと日本語訛りで英語を発音する帰国子女の生徒もいる。私が通っていた県立高校にも、オーストラリアで小学校に通っていたのに、授業中に英語をわざと日本語訛りで発音していたために、周囲がその事実を全く知らなかった生徒がいた。日本の小学校の英語の授業では、生徒に発音を教えようとするとクスクス笑いがひどくて全く授業にならない、というALTの嘆きも新聞で読んだことがある。

過去の日本の英語教育では、日本人の英語担任が、教育用に録音されたネイティブスピーカーの英語カセットを授業中に再生し発音を教えていた。私がよく覚えているのは、県立高校の英語担任が、テープを使ってLとRの発音の聞き分けを教えようとした時のことだ。日本語にはLとRの区別がないので、例えばcrowdとcloud、riceとliceなどの聞き分けが難しい。その教師は、Lの発音が聞こえたら挙手するように私たち生徒に指示した。この時私たちは目を閉じているように言われた。自分以外の生徒の挙手につられていてはリスニングの練習にならないから、という理由だったのだろうが、シーンと静まりかえった教室にカセットから聞こえる英単語だけが響き、LとRの区別が出来ないことが「恥ずかしいこと」であるような雰囲気が満ちていた。LとRの発音の練習には、こんな細工は必要ない。ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ(Bill Haley & his Comets)の大ヒット曲「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(Rock around the clock)を10回も唄えば自然にできるようになる。

こんな過去もあって、日本では、生徒たちまでが「英語はこういう風に発音するべき」という姿勢になっている。つまり、限られた英語の授業の時間の中で示された模範的英語の発音以外は「ヘン」または「ダメ」という姿勢だ。これは英語に限らない。日本語の方言についても同じで、新しく入って来た転校生の訛りを聞いたクラスメートがクスクス笑うとか、方言を理由にいじめるなんて話も聞く。こういう生徒にとっては、いつも自分が基準で、ほかはそれ以下なのである。

だから、英語の発音の授業は、まず、日本語のさまざまな方言を聴き、その真似をしてみるところから始める。東京の学校なら、自分が千昌夫やオール阪神・巨人の話し方にどれくらい近づけるかやってみる。それから、世界の色々な地域で多様な人々が話す英語のさまざまな発音を聞いてもらう。アメリカ国内だけでも、ニューヨークのアフリカ系の人々の英語、西海岸の若者の尻上がりのイントネーション、南部の訛り、中南米からの移民人々の英語など、様々な音が存在する。それらがすべて英語だという認識をもってもらうためだ。教師は、地理的に多様な舞台で繰り広げられる映画やTVドラマのDVDを用意するだけでよい。

私は、横浜生まれの橫浜育ちだが、20代の7年間を岩手県で過ごした。その期間の終わり頃には、地元の人たちに似た話し方をしていた。同僚からは、「だいぶ上手になったけど、まだ、エセ東北人だから~」と嬉しい冗談を言われたりした。英語の発音も同じで、ネイティブスピーカーの耳にはどこか日本語訛りが残っている、それで当たり前なのだ。私の両親は広島の出身なので、親の言葉を聞いて成長する中で広島の言葉が身につき、それに気付いていない場合がある。一度、英日翻訳の講座を受けたとき、講師に「これは関西の方言ですので訳としては×」という評価を受けたことがある。外国語から日本語に翻訳する場合、その日本語は標準語であることがルールなのだ。地方の文化や風土に根付いた方言や訛りは、言語学習の教科書には出てこないけれど、実際に言葉を使ってコミュニケーションをするためには、それらをより多く理解できると役に立つ。私にとって、日本語の方言を学ぶことと英語を学ぶことにあまり大きなちがいはない。

とても面白いと思うのだが、英語の “What are you doing?”(あなたは何しているのですか?)というイントネーションは、広島弁の「あんた、何しとるん?」という時のイントネーションにとてもよく似ている。実は、標準語より広島弁のイントネーションの方が英語に近い場合がよくある。英語も広島弁も、バナナ、ピアノなど、音節が三つある単語の真ん中にアクセントがくることが多いのだ。イントネーションが近いと、気持ちの上でも近い感じがする。

ネイティブスピーカーの模範的な英語を教えることが義務教育の英語の目的だと思えば、生徒たちの「クスクス笑い」や恥の意識はなくならない。生徒同士が自由に英語を発音できる教室を、義務教育の英語の初日から作ることが大切だ。2014年10月の回で、中学の義務教育の英語の目標は、英語圏の普通の高校生の英語の力になるべく近づくこと、としてみたら、と書いた。英語圏の普通の高校生は、スペルミスもするし、訛りもあって、全然パーフェクトではないのだ。 

2015年10月 見ぃつけた!教科書以外のすごい教材!

前回、義務教育の英語授業を始めるにあたって教科書は要らない、と書いたけれど、教師にしてみれば、他にどんな教材を使うか具体的な話がなければただの無責任発言としか思えないだろう。もちろんバックシート・ドライバーに責任を問うこと自体まちがいかもしれんが。しかし、ちょっと見回せば、すぐに素晴らしい教材が見つかる。例えば今年4月29日に安倍首相が米国連邦議会上下院合同会議で行った演説「希望の同盟へ」の英語原稿と、外務省が発表しているその日本語版(読むとわかるが、おそらく英語原稿の和訳として書いたもの)だ。この2つを読むと、英語、翻訳技術、異文化体験、といろんなことが学べる。面白いのは、これらの原稿が「反面教師」として素晴らしい、という点だろう。インターネットの情報によると、安倍首相の昭恵夫人は、この英文スピーチ原稿の読み上げを練習する首相を写真に撮り、ネット上にアップロードしたそうだ。本番では読み上げに45分かかったというこの原稿。ちょっと見てみたら…

この夏の安保法案に関する国会での議論をまったく意味のないものにしてしまった、と国内で非難されたこのスピーチの中の「地域における同盟のミッション(The Alliance: Its Mission for the Region)」の部分。早速見てみよう。“In Japan, we are working hard to enhance the legislative foundations for our security. Once in place, Japan will be much more able to provide seamless response for all levels of crisis. These enhanced legislative foundations should make the cooperation between the U.S. military and Japan’s Self-Defense Forces even stronger, and the alliance still more solid, providing credible deterrence for the peace in the region. This reform is the first of its kind and a sweeping one in our post-war history. We will achieve this by this coming summer.”

さて、英語担当教諭が英語学習初心者の中学生たちにまず説明しなければならないのは、we(=私たち)という人称代名詞。日本の総理大臣が米国議会へ公式に招かれ、演説をしたのだから、彼の言うweとはすなわち、「日本国民」を意味する。米国の聴衆は、そういう前提でこの演説を聞いたと考えるのが妥当だ。これはとても重要なレッスン。だから、首相が「日本国民」以外の意味で「私たち」と言いたいとき、weという人称代名詞を使う前に、まず主語が誰なのか示さなければならない。しかし、この演説を通して、そういう部分は見当たらない。

上の英文の直訳を試しにやってみると、こんな具合。「日本では、私たち(=日本国民)が、私たち(日本国民)の安全保障のための立法上の基礎固めに努めています」と始まって、「この(安保)改革は、日本の戦後史に例を見ない大々的なものです。私たち(=日本国民)は、来る夏までにこの改革をやり遂げます」となる。しかし、これは嘘である。スピーチ当日の4月29日の時点で安倍首相と自民党と公明党はこう思っていたかもしれないが、少なくとも衆議院に法案が提出された5月15日まで、多くの国民はこの法案の内容を知らなったもん。首相の取り巻き連中以外の日本人からすれば、weと一派ひとからげにされるなんてとんでもない話。

この部分の外務省日本語版は、「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます」となっている。夏までに法案成立させようと努力しているのは「日本国全体」と読める。

英語には、総称人称(generic person)と呼ばれるweとかyouとかtheyとか oneとかいう代名詞群あり、これは英語学習の初級レベルで必ず使い方を教わる文法事項だ。英和翻訳を行う人にお薦めの安西徹雄著『翻訳英文法』にも書いてあるけれど、漠然と『人』を表す総称人称は、しいて訳せば「人」となるが訳出しない方がうまく翻訳できる、というのは義務教育の英語でも教える。英語の授業で習ったYou can’t cry over spilt milk.ということわざ、おぼえていませんか?日本語では「覆水盆に返らず」で、You (=あなた) は訳出されない。しかし、日本の英語教師のみなさん、このルールは安倍首相の演説に適用されるべき?

「強い日本へ、改革あるのみ」(Reforms for a Stronger Japan)にも、同じようにweの大問題がある。これは日本の女性に大きく関わる部分なのでご注目。“To turn around our depopulation I am determined to do whatever it takes. We are changing some of our old habits to empower women so they can get more actively engaged in all walks of life.” 外務省日本語版は、「人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています」となっている。最初の文中「何でもやるつもり」なのは、Iつまり安倍首相だが、その主語は訳されていない。この乱暴な和訳のおかげで、まるで、安倍首相をはじめ日本の男性たちが全国の女性を妊娠させてまわるのか、みたいにさえ聞こえて私は笑ってしまった。そして次の文。人称代名詞を全部訳出して直訳してみると、「日本国民は、女性に権能を与えるために日本国民の古い習慣のいくつかを変えつつあり、それにより、女性があらゆる職業においてさらに活躍できるようになります」となる。この「日本国民の古い習慣」とは何でしょう?女性の社会進出や活躍を邪魔しているのは、主に、議会で女性蔑視のヤジを飛ばしている自民党議員や、戦後自民党が守ってきた古い法律や制度じゃないの?そして、外務省日本語版の重大な誤訳は、「女性に力をつけ」の部分。英単語は “empower”で、辞書を引くと、第一義は、「~する権限(権能)を与える、権力を委ねる」、第二義は「~する能力を与える、~にすることを許す」となっている。日本の女性の社会進出が進まない問題は、日本の女性に力がないからではなく、学歴も能力も高いのに、社会の制度、法律、男尊女卑の文化のためにそれが妨げられている、というのが最近の共通認識だから、「女性に力をつけ」というのは誤り。力をつけて頭を柔らかくしたいのは、むしろ男性の方じゃ?ここで英語の先生たちは、自分の知識やロジックと照らし合わせながら、辞書で単語の最も正確で適当な意味を確認することの重要性を子供たちに教えることができる。

“America and Post-War Japan”(アメリカと戦後日本)というセクションは、 “Post war, we started on our path bearing in mind feelings of remorse over the war. Our actions brought suffering to the peoples in Asian countries. We must not avert our eyes from that. I will uphold the views expressed by the previous prime ministers in this regard.”と始まる。特に新しい主語がでてきていないので、we (=私たち=日本国民)の意味のようだが、日本軍のアジアでの行為を直視していないと非難されている首相がこう言うのもしらじらしい。さて、この部分の外務省訳は、「戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません」となっている。どうもヘンだ。この部分の英文原稿は4つのセンテンスからなっているのに、日本語版には3文しかない。真ん中の2つの文章をくっつけてひとつにしてしまったのだ。そのため、「日本国民の行いは、アジア諸国の人々に苦しみをもたらしました。私たちは、そのことから目をそむけてはなりません」となるはずなのに、「誰が」目をそむけてはならないのか抜けた和訳になっている。そして、4つ目のセンテンスの主語Iは、安倍首相自身のことであるが、太字の部分をご覧ください。日本語版にはそれが欠けている。これだと、「歴代総理と全く変わるものではない」という思いを抱いているのは誰なのかもボヤケている。先へ進もう。“We must all the more contribute in every respect to the development of Asia. We must spare no effort in working for the peace and prosperity of the region. Reminding ourselves of all that, we have come all this way. I am proud of this path we have taken.”この部分の外務省日本語版は、「アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います」となっている。まず、すぐにわかる訳抜けがある。最初の文章の “all the more” の訳。これは「ますます多く、かえって」という意味の表現だ。英文原稿の文脈から考えると、「日本国民の行動が、アジア諸国の人々に苦しみをもたらしてしまったという過去があるのだから、we(=日本国民または日本)は、一層、アジアの発展に尽力しなければならない」と、結構重要な部分だ。3つ目の文は、「日本国民は、そのことを忘れずに、はるばるここまで来ました」となるはずだが、日本語版では、 “all this way”(=はるばる)の部分がすっぽり抜けている。戦後70年を振り返っての演説という背景があってこの表現が用いられたのだから、これを訳さないという選択は翻訳者としてはセンスがない。さらに、その前の部分で「歴代の首相の見解を支持する」という部分の主語I(=首相)は訳されていないのに、「戦後の日本を誇りに思う」という最後の文章の主語I(=首相)訳出されている。戦中・戦後の日本についての首相の見解が国際的に注目されていることを考えると、何か訳者や外務省の政治的思惑さえ臭う。教育現場に手前味噌な政治的中立を唱える安倍政権は、外務省お墨付き日本語版はノーチェックということでしょうか?

全般的にこの演説の意味するところは非常にあいまいだ。そして外務省による和訳は、主語を抜かすだけにとどまらず、です・ます調とだ・である調を混ぜる、2つの文章をひとつにまとめておおざっぱに訳す、明らかな誤訳、と税金の無駄遣いもいいところ。まさに反面教師!全国の英語教師のみなさん、教科書なんてなくても実用的な英語は勉強できます!この素晴らしい教材を利用しない手はありませんよ!

次回は、この演説の中の安倍首相の「ジョーク」と外務省訳のカタカナ英語について見てみます。

2015年11月 見ぃつけた!教科書以外のすごい教材!その2

前回からチェックしている2015年4月の首相による米国での英語演説。その外務省日本語版に、英語をそのままカタカナ表記しただけになっている単語がある。その中から以下の7つを拾ってみた。
1. フィリバスター
2. チャンピオン
3. ギャラリー
4. フリーライド
5. クォンタム・リープ
6. リバランス
7. バナー
外来語、つまりチョコレートとかプールとかいう言葉は、日本人がその正確な意味を了解している、日本語になった外国語だ。上の7つは、その範疇ではないと思う。まず1番目の「フィリバスター」だが、外務省の人って、「フィリバスター」というカタカナ英語の意味を日本人の大多数が正確に把握できるという認識なのだろうか。アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ターミネーター』という映画が大ヒットした1984~1985年頃、テレビを見ていたら、レポーターが東京で道行く人に「ターミネーター」という英語の本来の意味を三択パネルで尋ねた。ほとんどの人が正解できなかったのを記憶している。あれから30年。日本人の平均的英語力がアップしたという話は聞かない。「ターミネーター」がわからないのに「フィリバスター」がわかるとは思えませんね!

次に2番の「チャンピオン」。これは知っているに決まっているだろ!と思われるかもしれません。だって、もう日本語になっていて「優勝者」って意味ですから。ところが!この演説で、この単語は次の文脈で用いられている。まず、マンスフィールド、モンデール、フォーリー、ベイカーと、過去の駐日米国大使の名を挙げた後:On behalf of the Japanese people, thank you so very much for sending us such shining champions of democracy. 外務省の日本語版は、「民主主義の輝くチャンピオンを大使として送って下さいましたことを、日本国民を代表して感謝申し上げます」となっている。「民主主義の輝く優勝者」ってどういう意味じゃ?ここの英語教材としてのポイントは、英語は、一つの単語にたくさんの意味がある、という特徴に触れることができること。前にも書いたが、中学英語の教科書には単語リストが付いていて、その教科書の中で使われた意味だけが掲載されている。中学生は、一つの単語に一つの意味しかないと勘違いしてしまい、辞書を引いて単語のさまざまな意味を意識的に習得していく習慣がつかない。結局、勉強時間の無駄になる。チャンピオンという英単語を辞書で引くと、第一義として「a.(競技の)優勝者、選手権保持者、チャンピオン、b. 最高賞を得た人(もの)、c. 名人」となっている。この3種類の日本語のどれを当てはめても、この演説の中の “champion” の意味としてふさわしくないのは明らかだ。で、二つ目の意味を見てみると、「(主張、他人の権利、名誉などのために戦う)戦士、擁護者」となっている。つまり、ここの “champion” は、「民主主義の擁護者である元大使たち」という意味で使われた単語だ。この正確な意味の理解をカタカナ英語の「チャンピオン」から一般の日本人に要求するというのは、どうなのでしょうね?

3番目の「ギャラリー」はどうよ?普通、最初に思い浮かぶ意味は「美術館」とか「画廊」。ゴルフする人なら試合の「見物人」。この演説では:In the gallery, you see, my wife Akie, is there.と使われている。首相の演説を議会の「傍聴席」(=gallery)で聴いていた首相夫人のことだ。ここの部分の外務省日本語版は「ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます」となっているが、このカタカナ英語をそのまま残しておく意味って何?「傍聴席」と日本語にする方が、どう考えても自然です。

4番目の「フリーライド」。これって、平均的な日本の高齢者にとって、日常語としての語彙に入っていないのでは?おまけにこの言葉が出てくるのは、「年配者」の多い日本の農業にも大きく関わるTPPに関する部分だ。英語演説の原文を見ると:In the pacific market, we (the U.S. and Japan) cannot overlook sweat shops or burdens on the environment. Nor can we simply allow free riders on intellectual property. 外務省の日本語は、「太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない」。英語教師のみなさん、この部分が具体的に何を意味するか、中学生や高校生から日本のお年寄りに説明させてみる、という授業はいかが?「知的財産がフリーライドされる」からカタカナ英語を排除すると、「知的財産がタダ乗りされる」となる。ここの部分、TPPの中のどんな品目について何を言っているのでしょうか?そう考えるとやはり、この「フリーライド」という単語をきちんと日本語として訳出するのが当然だと思いますけど。さらに、simplyという単語もすっかり日本語版から抜けて落ちている。この部分のsweat shopsという言葉の「過酷な労働」という翻訳も実はちょっとおかしい。この表現は、劣悪な環境の工場などでほとんど報酬なしに主にブルーカラー労働者が酷使されていることを意味する。例えば銀行の事務員がエアコン付きオフィスで長時間労働して過労死しても使われる表現ではないのだ。Pacific marketという英語も、「太平洋の市場」となっているけれど、TPPに関してのこの言葉の日本語訳は、インターネット等でも大抵「環太平洋市場」または「太平洋市場」となっていて、単にそれを使えばよいだけじゃないの?

5つ目の「クォンタム・リープ」(=quantum leap)については、カタカナ英語に続いて(量子的飛躍)と和訳が書いてある。外務省の担当者も、さすがにこの言葉はそのままでは大多数の日本人にとって意味不明だろうと親切気を起こしたのだろうか。この言葉は、先月触れた「人口減少反転」の部分の直後に出てくる。そのためには「何でもやるつもり」と首相が胸を張った後:In short, Japan is right in the middle of a quantum leap. 外務省日本語版は、「日本は今、『クォンタム・リープ(量子的飛躍)』のさなかにあります」となっている。え?日本は、今、「光子の吸収、粒子の衝突などによっておこる量子学的状態間の転移」(研究者新英和大辞典)の途中だったの?そりゃ、知らんかった。あなたご存じでした?この英単語は、辞書にもよるけれど、第一義が「量子的飛躍」という物理学用語で、第二義は、「大躍進」という意味だ。ここで、首相がこの難しそうな英単語をしゃべったことを尊重したくてカタカナ表記を入れたのなら、その和訳は「大躍進」でなければ普通の日本人にはトンチンカンである。それに、文の初めのIn short(=要するに、手短に言えば)という非常に使える熟語の訳はどこへ消えたのだろう?

6つ目の「リバランス」。これはどうです?中学生、高校生のみなさん。「バランス」ならわかるけど、「リバランス」はちょっと・・・という方いませんか?英語で “re-XXX”という単語はたくさんある。既に日本語になっている例を挙げると、「リバウンド」とか「リセット」とかが思い浮かぶと思うが、この接頭辞を辞書で調べると、「また、再び、あらたに」という説明にたどり着く。英語の演説を見ると、:---we support the “rebalancing” by the U.S. in order to enhance the peace and security of the Asia-Pacific. And I will state clearly. We will support the U.S. effort first, last and throughout. となっていて、外務省日本語版は、「私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の『リバランス』を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに名言します」となっている。英語教師の方々は、この引用符の中にあるrebalancingは、日本語の「いわゆる」の意味を伴って読むべきことを、まず教室で説明するべきだ。スピーチなどの場合、演説をしている人が両手の人差し指と中指をじゃんけんの「ハサミ」のような形にして、胸の高さまで上げ、二本の指先を曲げたり伸ばしたりするジェスチャーをして表現されることが多い。外務省の日本語版では、このrebalancing(リバランシング)という動名詞を「リバランス」と書き直している。ここで、英語教師は、この単語が名詞と動詞の両方として使えることを説明しなければならない。日本人にとって名詞としか聞こえない英単語に、動詞として使えるものは多い。ここで逐語訳を試してみると、「私たち(=日本国民)は、アジア太平洋地域の平和と安全を増進するための、米国による、いわゆる、リバランシングを支持します」となる。これどういう意味でしょうか。「リバランシング」の意味が日本語で書かれていないので、米国が一体何をするのかわかりません。米国が「新たにバランスをとる」ことを支持します?しかし、「いわゆる」なのだから、「皆さまもよくいう」ことのはず。でも、演説の字面だけ読んでもさっぱり意味がわからない。英語を勉強しても、普段から新聞やニュースに注意していなければあまり意味がない、ということを子供たちにわかってもらう良い機会になる。世界で起こっていることに興味がなければ、英語を勉強してもしょうがないのだ。

最後のカタカナ英語は「バナー」。インターネットが普及した今、若い人の頭に浮かぶのは、「バナー広告」だろう。縦より横がずっと長い広告だ。もともとは、「横断幕」とか「垂れ幕」、さらには「シンボル」とか「旗印」の意味もある。この言葉は、Japan’s New Banner(外務省日本語版:日本が掲げる新しい旗)というセクションの中に:…we now hold up high a new banner that is “proactive contribution to peace based on the principle of international cooperation.となっており、「いまや私たちが掲げるバナーは、『国際協調主義にもとづく、積極的平和主義』という旗です」と和訳されている。この文章の主語である「私たち」は、前回言ったように「日本国民」。全文読むとわかるが、この「バナー」を、首相は、「日本国民の新しい自己像(=self-identityという英語の日本語版)」としている。Self-identityとは、自分と何かが同一である、という意味だ。つまり、今後、日本人を見たら、「国際協調主義に基づく積極的平和主義」と書いた旗を掲げて歩いていると、考えてください、ということだ。外務省日本語版は、「バナー」というカタカナ英語をわざわざこの文章の中に残し、そのあとすぐに「旗」と言い直している。こなれていないヘンな日本語だ。日本語にカタカナ英語を多数混ぜて使うと、「日本語だけより、なんかカッコよく聞こえる」と感じる日本人は意外に多い。外務省もそうなのだろうか。例えば、「クレジットカード」という外来語を日本語に訳して「掛売券」とか「信用貸し札」としてみる。「クレジットカード」という時と同じ気軽さで使うだろうか。その言葉を見聞きするたびに「自分は借金をしている」と思い出さざるを得ない。この「バナー」という言葉も、「日本国民は、今、私たちの新しい旗、すなわち国際協調に基づく積極的平和主義を掲げます」くらいの日本語にして考えると、ん?そうなのか?と自問する人も増えるのでは?「国際協調」と言っても、一体世界のどこの国と協調するのか、とか、積極的平和主義というからには、今までは消極的平和主義だったのか、とかいろいろ疑問も湧いてくる。英語の文章を読むときに、やたらにカタカナ英語を用いてわかったような気になるな、という英語入門の重要なポイントを学ぶ教材になりそうだ。

さて、以前、中学3年生には、「1年後、高校生になった自分」を主人公にした短い劇のシナリオを英語で書いてもらったら、という提案をしたことがあるが、その中で実際に必要となる英語力に、「冗談を言う」というのがあると思う。中学生や高校生の日常会話は、ジョークに満ちているはずだから。日本では、公式な場での冗談とかユーモアは特に要求されないが、米国では、政治家の演説にも人を笑わせることを求める。聴衆に面白いと思わせることが日本より重要視される。真面目一点張りは、あまり評価されない。それを意識してか、首相演説にもそれらしき箇所が見つかった。

まず、冒頭。さきほどカタカナ英語の部分で触れた「フィリバスター」の部分だ。外務省日本語版によると、「…このたびは上下両院合同会議に日本国総理として初めてお話しする機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに感謝申し上げます。申し上げたいことはたくさんあります。でも、『フィリバスター』をする意図、能力ともにありません」となっている。先ほどの部分で、フィリバスター(filibuster)の意味を調べなかった皆さんのために申し上げると、この単語の意味は、「議事妨害演説とか長演説」のことだ。つまり、安倍首相は、アメリカの議員たちに「私は、前もって用意された原稿を読む以上の英語力はありませんので、言いたいことは全部言えません」と言ったわけ。日本の中学生のみなさん、これ面白いかしら?私が米国人議員だったら、ここで大笑いはできない。仮にも公式訪問で来た一国の首相が英語力不足を自認し、にも関わらず英語で演説しているのだから、リアクションに困るだろう。テレビで見たが、やはり大笑いしている議員はおらず。そりゃ無理もない。国際的にも日本人は英語レベルが低い、というのが通説のようだしね。でもさ、それなら母国語である日本語で言いたいことをすべて言った方がよかったんじゃ?前にも触れたが、私も高校生の時、英語弁論大会で入賞した経験がある。昔取った杵柄、とこの演説を自宅でやってみた。ジョークらしき部分は、ジェレミーに「聴衆の笑い声」を入れる役をやってもらった。時間を計ると、最初から最後まで約22分だった。テレビで見たが、首相の英語演説は発音に苦しんでいる様子。トータル45分かかったそうだが、同じ時間内でも日本語ならもっと内容を充実できたかもね。9月に米国を公式初訪問した中国の習近平は、中国語で演説していたよ。ちなみに、安倍首相が英語ではなく日本語でも台本にないメディアからの質問に答える知識を持ち合わせていない、という話は、2015年10月25日『ジャパン・タイムズ』紙のメディアミ・ックス(Philip Basor)に触れられている。

次のジョーク。首相が学生の頃、加州でホームステイをしたとき、その家の夫人が寡婦で、亡くなった夫のことを、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と口癖のように言っていたという話のあと、例の「ギャラリー」に昭恵夫人がいる、と紹介し:I don’t dare ask what she says about me. つまり、直訳すると「妻が私のことを(他人に)何といっているかはあえて尋ねない」となる。さて、教室の英語の先生は、中学生に「ゲイリー・クーパー(Gary Cooper)」が誰かを説明しましょう。私のお気に入りは『モロッコ』。ジェレミーは、『摩天楼』。また、「顔」の話をしていることは「男前」という単語から明らかなので、彼の写真などもあるといいですね!しかし、米国議員たちにすれば、やはり、このジョークへのリアクションも「絶句」か「苦笑」だったかも。日本の中学生のみなさん、首相のユーモアのセンスに何点つけます?

続いて、鉄鋼メーカーに就職し、ニューヨークに勤務したときの話として:Here in the U.S. rank and hierarchy are neither here nor there. People advance based on merit. When you discuss things you don’t pay much attention to who is junior or senior. You just choose the best idea, no matter who the idea was from. This culture intoxicated me. So much so, after I got elected as a member of the House, some of the old guard in my party would say, “Hey, you’re so cheeky, Abe. ここで次のセクションに入り:As for my family name, it is not “Eighb.” Some Americans do call me that every now and then, but I don’t take offense. That’s because, ladies and gentlemen, the Japanese, ever since they started modernization have seen the very foundation for democracy in that famous line in the Gettysburg Address. 

ジェレミーは、ここの部分では、「え?マジで?アメリカってそんな国なの?」と笑い声をたくさん入れてくれましたが、どうでしょう。中学生のみなさん、どう面白いのか説明できる?外務省日本語版はこうなっている:「上下関係にとらわれない実力主義、地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方なら躊躇なく採用する。―この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だと随分言われました。 私の苗字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一説に求めてきたからです」 まず、日本語版にいろいろ不正確な部分があるので、より正確な訳に近づけてみよう:「ここ米国においては、階級や地位の高低は存在しません。実力のある人が前に進みます。話し合いの場においても、先輩、後輩の関係はあまり気にしません。誰のアイデアであろうと、とにかく最善のものを選ぶのです。私は、この文化に酔いました。すっかり心酔してしまった私は、衆議院に当選した後、我が党の古株から、『おい、アベ、お前はえらく生意気だ』と言われたものです。  私の姓ですが、『エイブ』ではありません。アメリカ人の方に時々そう呼ばれるのですが、私は腹を立てたりしません。その理由は、日本の近代化が始まって以来ずっと、ゲティスバーグ演説の中のあの有名な一文にこそ民主主義の礎あり、と日本人にはわかっているからです」くらいでどうでしょう。 この部分は、読んでいる中学生が異文化を体験しながら米国史も学ぶ良い機会だ。この中で語呂合わせはどこに隠れているか、中学生に見つけてもらう。まず、アメリカ人は、首相の姓のローマ字つづりAbeを見ると、Abraham(エイブラハム)という男の名前の一般的な愛称を連想し、「エイブ」と発音してしまうということ。首相は、そのエイブラハムを「人民の、人民による、人民のための政治」とゲティスバーグ演説で述べた米国第16代大統領エイブラハム・リンカーンのこと、と考えるので、名前の発音を間違えられても腹を立てない、と言っているわけだ。でも、この「日本の近代化云々」の部分は歴史的事実?私の記憶では、日本の近代化は、アメリカじゃなくドイツやイギリスをお手本にして進められた、と教えられたけど。それに、アメリカでは、20世紀の後半に入っても人種差別が続いていたよね。去年触れたが、中三の英語の教科書の中にローザ・パークスの話が載っているから、中学生たちも知っているはずだ。

ジェレミーと私も、去年、CNNキャスターのBecky Andersonが首相のことを「プライムミニスター・エイブ」(Prime Minister Abe)とテレビ番組で呼んでいるのを聞いた。私は苦笑した。キャスターが勉強不足なのか、日本の首相の存在なんて、姓も正しく発音してもらえない、その程度のものということなのかわからんが。名前で思い出すのは、私が通ったアメリカの高校の出席確認の時のこと。Asakoという名前を見て「アセイコー」と発音する先生がいた。「発音がちがいます」と言うと、先生が「日本の時計ブランド、セイコー(SEIKO)と結びついてしまって」と言った。とても意外で驚いた記憶がある。アメリカでは、相手の希望通りの呼び名を使うのは基本的なマナーで、例えばWilliamという名前の人なら、「ビル(Bill)と呼んでください」という人もいれば、「ウィル (Will)と呼んでください」という人もいる。特に外国の名前の人は、呼んで欲しい名前や愛称の発音をしっかり覚えてもらう、というのが人間関係の第一歩だ。私は、初めてアメリカに行った高校生の頃は、「アセイコーではなく、アサコです」と、言うとき、アメリカ人が発音し易い、真ん中の「サ」にアクセントをつけた発音を受け入れていた。しかし、その後、英会話力が上がり、本来の発音と同じく、頭の「ア」にアクセントを置いた発音をお願いするようになった。英語を話す相手に「アサーコ」と呼ばれるのは、結局のところ自分の名前に聞こえないので、それを説明できるようになったのだ。安倍首相は、自分の名前を間違って発音されても怒らない、と言っているが、そう呼ばれたとき、「私の名前はアベです」と英語で伝えているのだろうか。「腹を立てない」のはいいけど、この前の部分の「英語力不足で長演説ができない」の件があるので、疑問。ここで私は、9月に成立した安保法案の国会における話し合いのことを思い出す。野党から、「実際にアメリカ軍が自衛隊に一緒に戦ってくれ」と要求してきたとき、法に反するからと言って、混乱した現場でNOと言うことが事実上可能なのか、という質問があった。首相の答えは、「そんな状況にはならない」とか「そんな形で戦争に巻き込まれることはないと私が言っているのだから間違いない」とかいう類のものだったように記憶している。自衛隊員の英語力が平均的な日本人の英語力をはるかに上回るものであるという話は聞いたことがないし、じゃ、誰が戦場で実際にNOというのだろうか。通訳が来るのを待つ?もし、自衛隊員が法律違反の戦争をしても、それは特別秘密法で誰にも知らされない?首相による「私は英語ができません」的演説の内容を読むと、この演説で一番笑えないジョークは、そこかもしれない。中学生のみなさん、どうですか?日本では、今後、18歳になったら選挙権が与えられるそうです。あなたが今、中学3年生なら、たったの3年後。安倍首相の英語演説を自分で読めるくらいの英語力、卒業までに身につけられるかな?

2015年12月 受動態の責任

私の高校時代の英文法の受動態の授業の印象は、「こんなこと習って何になるんじゃ」というものだった。その理由は、能動態を受動態に書き直す練習問題をするたびに、「こんな言い方はしない」という和訳が続出したから。例えば、次のようなドリル。

My father gave me this watch. (父は私にこの時計をくれた)

これを、this watch を主語に置いて受動態にしましょう、と先生が言う。

This watch was given to me by my father.

この文章を逐語訳すると「この時計は、父により私に与えられた」となる。こんな言い方誰がするのでしょうね。次に、先生が I を主語に置いて受動態にしましょう、と言う。 I was given this watch by my father. この文章を逐語訳すると、「私は、父によりこの時計を与えられた」となる。一体どんなすごい時計なのよ、とヘンな裏の意味を勘ぐってしまうような不自然な言い回しだ。こういう練習問題を延々とやらされてウンザリした、というのが私の思い出。だから、私は、「受動態って、日常英会話でどうやって使うの?」と不思議に思っていた。だって、能動態の方がずっと簡単だもんね。「Be動詞+過去分詞」なんて面倒くさいこと覚える必要もない。

高校の英文法の授業で受動態を習うまで、私は普段から受動態と能動態を意識して日本語を話していたわけではなかったと思う。ちょっと考えてみた。私が子供の頃、みんなが読んでいたし、テレビでも観ていた『サザエさん』。ワカメちゃんが「え~ん」と泣いている。サザエさんが、「どうしたの?」と訊くと、ワカメちゃんが、「お兄ちゃんがあたしのオヤツを食べちゃった!」と答える。するとサザエさんが、「こら、カツオ!」ととっちめる。こんな状況を想像したとき、ワカメちゃんのセリフ、「お兄ちゃんがあたしのオヤツを食べた」が能動態の文であって、その受動態は「私のオヤツがお兄ちゃんに食べられた」となる、なんてことを意識している日本人は少ないと思う。

先月10月23日のInternational New York Times紙に、とても考えさせる記事が載っていた。著者は、アメリカのダートマス・カレッジで1年生にライティングを教えているEllen Bresler Rockmore(エレン・ブレスラー・ロックモア)という人。題は、〝How Texas teaches history″(テキサス州における歴史の教え方)。この中でロックモアさんは、学生たちに明解な文章を書くことの大切さを伝えるために、ライティングの原則のひとつとして、できる限り抽象名詞ではなく人を主語とした文章を、受動態でなく能動態で書くことを教えていると述べている。私も大学の選択科目の英作文の授業で同じことをアメリカ人の先生に教わった。

さて、ロックモアさんは、テキサス州で使われている教科書の中で、米国の奴隷制について書かれた文章をいくつか引用している。例えば:

Some slaves reported that their masters treated them kindly. To protect their investment, some slaveholders provided adequate food and clothing for this slaves. However, severe treatment was very common. Whippings, brandings, and even worse torture were all part of American history.

この文章を日本語にしてみると、「奴隷の中には、主人が親切に扱ってくれると報告する者もいた。奴隷所有者の中には、自らの投資を守る目的で、奴隷たちに十分な食料および衣類を与えた者もいた。しかし、厳しい扱いは非常に一般的であった。鞭打ち、焼き印、それよりひどい拷問も、すべて米国史の一部であった」。

Families were often broken apart when a family member was sold to another owner.

「家族の一員が別の主人に売られ、(奴隷の)家族がバラバラにされることが多かった」(アサコ訳)

文法の説明のために書かれた日本の英語教科書なら、この二番目の受動態の文の隠れた動作主(奴隷所有者)を “by slave owners” として文尾につけておくと思うが、ここにはそれは示されていない。英語圏で生活してみるとわかるが、受動態は頻繁にこのように動作主なしの状態で使われる。

ロックモアさんが注目しているのは、「奴隷所有者が親切だ」とか「奴隷所有者が奴隷に十分な衣食を与えた」という内容の文章は、「奴隷所有者」や「主人」を主語とした能動態を用いて書いてあるが、奴隷家族の離散につながる人身売買や拷問については、彼らが主語になっていない、という「通常は政治とは無関係と思われている文法による歴史の歪曲」だ。ロックモアさんは、上の二つ目の引用文を能動態の文章に書き直している:

Slave owners often broke slave families apart by selling a family member to another owner.

「奴隷所有者は、奴隷の家族の一員を別の主人に売ることにより、頻繁に家族をバラバラにしていた」(アサコ訳)

ロックモアさんは、「教科書の出版社は、難しい立場に置かれた。出版社は、歴史と相容れない保守的な政治的見解に異議を唱えることなくテキサス州の子供たちに歴史を教えなければならなかった。その過程で、出版社は文法上の多くの選択をした」(アサコ訳)と書いている。彼女の論点は、こうした文法上の選択は、出版社の道徳上の選択となることもあり、出版社は間違った選択をしたことになる、というものだ。

最近の日本の英語教科書をみると、受動態の説明として、「誰の動作なのか不明なときや、示す必要がないとき、受動態が好まれる」と書いてあるものや、受動態の二種類の使い方を示しているものがある。二種類の一つ目は、「誰それによって何がなされる」という表現。二つ目は、動作主を明示せずに述べる表現。例文にはこんなのが載っている:

Electric lighting was invented by Edison.
(電気照明はエジソンにより発明された)

Video tapes are not used often these days.
(最近、ビデオテープはあまり使われない)

私の高校時代の受動態のテスト問題やドリルには、まず能動態の文章が印刷されていて、「この文章の意味を変えずに受動態に書き直しなさい」と出題されるのが普通だった。私を含む生徒たちは、この「意味を変えずに(すなわち、同じ意味であるということ)」をうのみにし、数学のイコールの記号を使ってノートに書き、まるで方程式のXの値を求めるように機械的に練習問題を解いていた。(最近の教科書では、「ほぼ同じ意味」という表現が使われている。この「ほぼ」ってどういう意味で使っているのか出版社の方の説明を聞きたいなぁ。)

My teacher told me to go home. = I was told to go home by my teacher.
(先生は私に家へ帰りなさいと言った)=(私は先生に家へ帰りなさいと言われた) というように。しかし、先ほどの奴隷制についての引用文の変換について考えると、Families were often broken apart when a family member was sold to another slave owner. Slave owners often broke slave families apart by selling a family member to another owner. と、イコールでは結べないのであって、そこを教えるのが正しい受動態の教え方のはず。当時の私も、埋もれていた「動作主」を意識的に復活させて主語に置いた能動態の文章を書くという作業をすれば、イコールで結んでよいのか、立ち止まって考えただろう。高校生の時、こういう風に教われば、受動態は重要だ、と私の目も覚めただろうにね。能動態の文章は、人身売買をして家族を離散させていた奴隷所有者たちを主語として文頭に置くことで、「誰が誰に何をした」という事の実態がずっと明確になっているもんね。

日本の中学生や高校生には、米国の奴隷制といってもピンと来ない?じゃ、今日本でも問題になっている「いじめ」に置き換えてみたらどうだろう。最近、いじめによる十代の生徒の自殺がメディアで取り沙汰されると、学校ぐるみの調査やアンケートが行われる。そんな報告の中に頻出するのが、「(自殺した)Aさんは学校でいじめられていた」という受動態を用いた表現。これを英語で書いてみましょう:

The boy (or girl) A was bullied at school.

こんなことを言うからには、誰がいじめていたかを知っている、またはいじめの現場を見たことがあるはずなのに、なぜか動作主のない受動態。肝心な情報を明かしたくない様子。こう考えると、なぜ自分が受動態を選ぶのか、身近に考えられるはず。この受動態の文章を能動態の文章に書き直しましょう、なんて出題をしたら、英語の先生はクビになってしまうのだろうか?

日本の学校における英文法の方程式型受動態授業は、そろそろ止めないと。そのためには、発信している人の気持ち、意図、潜在意識などが、受動態と能動態の使い分けと密接に結びついていることを、日本人の英語教師が体得する必要がありそうね。たとえば、こんなのはどうでしょう。最近、私の手元に「マイナンバー(個人番号)」が届いた。ニュースで「お手元にあなたのマイナンバーが配達されます」と言っていたが、この受動態の文章を英語にすると:

Your “My Number” will be delivered to you. 

「あなたの『私の番号』があなたに配達されます」ということだ。これを能動態に直してみると:

The government will send your “My Number”.
A local postman will deliver your “My Number” to you.

となるはずだ。送り主は政府で、配達するのは郵便局員なのだから。しかし、何かおかしい。私に届いた『私の番号』は、政府が勝手に「これがお前の番号だ」と言っているのだから、「マイナンバー」ではなく「ユアナンバー」のはずでは?私は、プライバシー侵害の理由からこの制度に反対なので、私の手元に届いた番号を「私の番号」と認めていない。だから私は届いた番号を「私の番号」とは呼ばない。この「マイナンバー」というニックネームは、大人が幼児に話しかけるときのやり方に似ている。よく、おばあちゃんが孫にプレゼントやおもちゃを手渡しながら「これ、ぼくの、ハイ」なんて言うではないか。政府がいい大人に「これ、アタチの番号でちゅよ、ハイ」なんて、英語の先生たち、気持ち悪いと思わない?

どうやら日本語でも英語でも、社会に受動態が溢れているらしい。平成のワカメちゃんは、「あたしのオヤツを食べられた!」と犯人のカツオ兄ちゃんを指ささない受動態を使わざるを得ないのだろうか。私が子供の頃のワカメちゃんは、家族の正義を担うサザエさんを100%信頼し、能動態で会話できていたのに。能動態を使うと「言いつけている」みたいでイヤ?でも、誰が何をした、と率直に表現することをためらうような社会に私は生きたくない。ちなみに『サザエさん』のテレビ版は現在も毎週日曜に放映されている。観てみると昭和のままだった。いその家の電話は黒のダイヤル電話。会社にはコンピューターもない。

今年の「バックシート・ドライバー」はこれで終わり。英語の先生たちは生徒に冬休みの宿題を出すに違いない。先生たちも自分に来年までの宿題を出してみたらどうだろう。もちろん、社会に氾濫する受動態の文章を能動態に書き直す宿題だ。先日、NHKスペシャルが原発事故のゴミを取り上げていたが、こんな感じの言い方が頻出していた:

A huge amount of radioactive soil from decontamination is kept in Fukushima.
(除染作業で出た、放射能に汚染された大量の土が福島に置かれている)

さぁ、これを能動態の文章に直してみましょう。これは、英語の先生に限らず、私も含む日本人全員の宿題といえる。あなた、ちゃんと答えが書ける?

2016年1月 3年目は「未来形」から

新しい年は、未来に希望を託して…と今年こそは日本の公立校英語教育に何か大きな改善がみられるのだろうか。と、始まりました3年目。  未来を表す助動詞 “will” は、日本の中学2年生の教科書に出てくる。頻用される例文は天候についてで、まず、現在形の「今日は寒いです」が、
It’s cold today.  
と示され、次に未来形として、「明日は寒いでしょう」
It will be cold tomorrow.  
とあり、疑問文として、「明日は寒いでしょうか」が、
Will it be cold tomorrow?
と示され、最後に否定文として「明日は寒くないでしょう」が、
It will not be cold tomorrow.  
と示される。学校では、日本語で「~でしょう」または「~だろう」という意味の言葉として “will” を教える。  

さて、ときどき東急東横線に乗るのだが、車内の停車駅英語アナウンスは、録音の再生で行われる。それが結構長くて、何度も繰り返される。多くの場合、車両内の乗客を見渡すと、ほとんどが日本人のようで、英語アナウンスが必要なのはジェレミ―くらいだけど。
1. We will soon be making a brief stop at Station A.
2. The stop after Station A will be Station B.
3. This is a super express bound for Station C.
4. The next stop is Station D.  
と日本人女性の声(英語が日本語訛りなのでわかる)がひっきりなしに流れている。アナウンス2と4と見てみると、不思議な現象に気づく。どちらも次、その次の駅についてのアナウンスなのに、2については「A駅の次はB駅でしょう」と未来形を使っている。日本語で同じことを言うとき、「A駅の次はB駅です」および「つぎの駅はD駅です」とどちらも現在形なのにね。私が2のアナウンスを初めて聞いたとき、「B駅はまだ建設中かなにかで、将来A駅の次に停車する予定」というふうに聞こえ、一瞬「ん?」と思った。2の英文を書いたのはおそらく日本人で、それが車内で実際に流れるときB駅にはまだ到着していないのだから未来形を使う、という判断だったのだろう。では、なぜ4も未来形にしなかったのかしら。4に関しては、「です」をそのまま “is” としている。その方が自然なのだけど。  

このように日本人が英語で未来を表現するとき、うまく説明のつかない判断をすることは、横浜市営地下鉄車内の英語アナウンスにも表れている。ジェレミ―が指摘するのが、関内駅にあと5秒くらいで到着する、というときに流れる英語アナウンスで、
The next stop is Kannai.
というもの。これも、英語を母国語としている人の感覚では「次の駅」ではない。日本語のアナウンスで「関内に停まります、関内で~す」という意味の、 This is Kannai.
がしっくりくるのだが。

日本人が英語の時制を学ぶとき、英語を母国語とする人たちの時間の捉え方が自分と全く異なる気がしてしまう経験は誰にでもあるだろう。その原因の一つは、現在形、過去形、未来形、現在完了形、過去完了形など、文法用語別に分類して教えるからだと思う。私も学校で完了形を習いながら、それをどうやって使うのか全く実感がつかめなかった記憶がある。スペイン語の勉強のときなどはもっと重症で、不完了過去や大過去、点過去、線過去さらには過去未来などという文法用語を聞き、スペインという国では、マジな話、日本と時間の流れが全く異なっているのではないか、と思ったものだ。しかし、実際に現地でスペイン人と会話してみると、「は~、なるほど、そういう風に使うのね」と全然違和感がなかったどころか、時間の流れの表し方がとても具体的に感じられた。時制の使い方を覚えるには、海外に出かけて会話するのが一番手っ取り早い。

ところで、英語圏の電車内のアナウンスはどんな感じなのだろうか。まず、ニューヨークの地下鉄だが、私が住んでいたころは、マイクやスピーカーの性能が悪いのか、走行中の騒音がうるさ過ぎるのか、車内アナウンスはほとんど聞き取れなかった。言語についても、英語以外のアナウンスは行われていなかった。20代のころ住んだことのあるサンフランシスコのベイエリアを走るBARTは、ニューヨークの地下鉄よりずっと清潔で車内も静かだった。停車駅のアナウンスも明瞭に聞き取れた。例えば、車掌さんが “Next, Embarcadero.” (=「次、エンバルカデロ駅」)というように手短に行う。それ以外は「閉まるドアから離れてください」という意味の“Stand clear of the closing doors, please.”という男性の声の録音のみで、これは毎回ドアが閉まる直前に一度だけ流れた。日本もこのくらいで良いのでは?米国サンフランシスコは、ここ数年、年間約1700万人(その約3割が海外からなのだそう)の訪問者を数える大都市だ。東京の最近の年間外国人訪問者数は、600万人くらいだそうだから、サンフランシスコの車内英語アナウンスの真似をすれば、単純に用は足りると思うけど。それに、日本では、訪問者の多くが中国や韓国から来るのだから、英語アナウンスにお金をかける意味もあまりなさそう。つまり、英語を優先的な外国語として車内放送に採り入れるのであれば、車掌さんが「次、菊名です」という日本語アナウンスに続いて “Next station, Kikuna.”と英語で言うだけで済む、ということだ。東急電鉄に限らず日本の鉄道会社の車掌さんの中に、next stationという英語を発音できない人がいると考えるのは彼らに対して失礼よ。「この電車は元町・中華街行き特急です」というアナウンスも、“This is a super express for Motomachi/Chukagai.”と言うだけで済む。この程度の英語を言うことができない鉄道職員を見つける方が困難だろう。

2年前にこの毎月ブログを始めた理由の一つは、日本政府が2020年の東京オリンピックを理由に日本人の英語力を向上させようとしていることを馬鹿げていると思ったからだった。テレビでは、都内の交通標識や道路案内の英語をわかり易く書き換える、と言っていた。事故防止や渋滞回避のために交通標識や道路案内の改善は必要だと思うが、一般的に「英語表示、録音、印刷物にお金をかけて安心する」日本人の姿勢こそ外国語アレルギーの象徴だと思う。日本人は、そうすることで「日本は国際的な国だ」と感じるかもしれないが、裏返してみると、それは、情報を必要としている外国人が外国語で話しかけても答えが返って来ない日本の社会を如実に表しているとも言える。

去年秋、みなとみらい線から東急東横線および東武東上線に乗り入れする電車を利用した日が約1か月はさんで2日間あったのだが、たまたま両日とも東武東上線内で人身事故があり、早朝からダイヤが大幅に乱れていた。このとき気づいたのが、いつもの車内英語アナウンスが一度も流れなかった。当然だ。東武東上線への乗り入れがなくなったため終着駅がいつもと違ったし、普段は急行の副都心線内が各駅になったりもしていた。こうなると通常運転用に録音した英語アナウンスは役に立たない。しかし、考えてみると、日本語を理解しない外国人が英語アナウンスを最も必要とするのは、このときのように事故などによって非常事態が発生したときであって、録音アナウンスの通りに通常運転している時ではないはずだ。つまり、車内英語アナウンスは、臨機応変に車掌さんが生(ライヴ)で行うのが一番効果的、合理的、そして経済的なのだ。

駅員さんや車掌さんが、録音や表示に頼らず “We will answer your questions.”「私たちがご質問にお答えします」と言えるようになることが、本当の意味での英語力の向上だと思うけど。  ちなみに、この最後の例文の willの和訳は、普通「お答えしましょう」にはならない。「お答えします」という現在形でオーケーだ。ここでは、「答えるつもりである」という「私たち」の意志を表しているのだから。

2016年2月 最近の英語教育スキャンダル

政治献金50万円の入った封筒を自分の懐に入れた記憶がない経済大臣、「歯舞」が読めない北方領土担当大臣、国が目標にしている福島の被曝量の重要性を軽視した発言を「忘れました」で済ませようとする環境大臣、放送法の勝手な解釈を基にメディアに圧力をかける総務大臣、と全くステキな日本国政府。当然、英語教育に関する醜聞もございます。

2月5日、現オリンピック担当遠藤利明大臣が、都内の民間ALT派遣企業から5年間にわたり950万円を受け取っていたという話が新聞に掲載された。この遠藤という人は、2013年に自民党の教育改革政策の音頭を取り、大学入試や卒業資格にTOEFLを導入することを提案した。問題の金銭授受はこの頃の話のようで、見返りに、その民間会社のALTの採用を増やすよう文科省に働きかけたそうだ。専門家によると、遠藤大臣は何も違法なことはしていないのだとか。ご本人も「法に反することはしていない」おっしゃっている。

その日の記事を読んだだけではわからないが、実はこの話の背景はこういうことだ。大学入試を目指した読み書き偏重の教え方を変える試みなのか、現在、学校教室にはALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー)という英語を母国語とするアシスタントが送り込まれている。私が中学、高校の頃には存在しなかった制度だ。現在は小学校にも派遣されていて、会話や発音、異文化紹介を担当し、日本人英語担当教師のサポートをする。しかし、新聞によると、日本の労働者派遣法では、学校や教育委員会に直接雇われている外国人教師のみが日本人の教師と共に教室で英語を教えることを許されている。ALTの中には地方自治体の下請けとして民間会社から派遣される人もおり、彼らには、日本人の英語担当教師とのチーム・ティーチングが許されていない。その結果、学校側の希望に反して日本人教師との協力が不可能だったり、英語を教えたくない日本人教師から仕事を丸投げされたりするのだそうだ。つまり、英語を母国語とする人材が学校で仕事しにくい法律が存在するわけだ。さらに、ALTの経験や知識にもばらつきがあり、単に日本に長期滞在したいがためにこの職についている人もいるらしい。こういう状況なのだから、遠藤大臣がしたことが英語教育の改善につながらないのは一目瞭然で~す。英語教育を見直す職務に「法律さえ犯さなければよい」という低レベルの感覚で臨む人材を充てるというのはどうなのでしょうね。教育に関わる人は、平均的な人より厳しい倫理観とか高い理想とかを持っているべきなのでは?

昨年11月14日の『ジャパン・タイムズ紙』によると、今月、全国標準英語教師養成プログラムの核となるカリキュラムが、顧問会議から発表されるそうだ。文科省は、2017年度までに、日本の公立高校の英語教師の75%が英検1級または準1級の認定を受けることを目標にしているそうだが、2014年の調査の結果、その割合は55.4%で、そんなことも影響しているらしい。日本ではこれまで各大学が高校教師養成プログラムを独自に作成していて、全国統一のプログラムは無く、教える先生たちの実力にばらつきがあるのだそうだ。

私の場合、中学1年から高校3年まで、公立校の日本人英語教師合計6人に教わったが、英語教師には大きくわけて2タイプあると思う。教科書の内容を手堅く説明するタイプと受験英語を意識して厳しく教えるタイプ。公立中学校の先生は、主に前者のタイプだと思う。高校受験で私立の難関を狙う生徒たちの多くは、塾で英語を勉強する。難関大学受験を希望する生徒が通う公立高校には、後者のタイプの英語教師がいる。私は県立高校で両方のタイプの教師に教わった。ポイントは、どちらのタイプの教えに従っても生徒たちはバイリンガルにならないということだ。ひどいな~。

こんなことを言うと、日本の英語教師はとにかく何もわかっちゃいない、みたいに聞こえるかもしれないが、そういうわけでもない。例えば、私が教わった英語教師のうち何人かが言っていた。「英語はコミュニケーションの手段なので、頭の中に英語を使って伝えたい内容がなければ勉強する意味がない」と。しかし、そういう認識を持っているにもかかわらず、生徒が教室で自発的に英語を使うのを促した人はいなかった。私が高校で教わった女性教師の一人は、上の認識を示しつつも、「私の言うことを聞いて黙ってノートをとりなさい」という態度だった。例えば、こんなこともあった。

高校1年のある日、クラスメートの一人が、教師用の教科書指導書を開いて授業を受けていたのが見つかった。英語担任は、指導書を見つけるなり本人の前でビリビリと破ってしまった。この出来事が起こる前から私たち生徒も察していたが、その英語担任は基本的に塾や予備校が良いに反対の立場で、自分の英語の授業をしっかり理解すれば大学受験も合格できるという考え方を持っていた。後で聞いたのだが、そのクラスメートは、教師用指導書を塾で使っていて、あの日たまたま机に出していた。指導書には教科書の練習問題の解答や解説なども掲載されていたので、本来なら生徒が使うものではない。しかし、その生徒の成績が特に悪いという噂は聞いたことがなかったので、指導書なんて必要あるのかな、と私には理解できなかったが、怠けるのは彼の勝手だと思った。どちらにしても、彼の私物を一瞬にして紙屑にしてしまった教師の行動を、私は非常に威圧的に感じた。ただ、ここで重要なのは、生徒たちがその先生を高く評価しており、人気もあったことだ。指導書を破った後も人気は相変わらずだった。つまり、私のクラスメートたちにとって良い英語教師とは、検定教科書のみを使いつつ受験合格のための英語授業をしてくれる先生だったことになる。今回の新しい英語教師養成プログラムはそういう教師を養成するためのものなのだろうか。大学受験の英語を大変革せずに高校教師の質を上げる、という文科省の動きは、そう受け止められても仕方ない。

「指導書ビリビリだけど受験英語もお任せ」の先生は、当然私の高校交換留学にも反対だった。この件は2014年にも書いたが、実はこれには後日談がある。卒業から約6年後、会社員だった私は米国の大学へ留学するために日本の高校の成績証明書が必要になり、母校を訪れた。その英語教師は当時も同じ高校で教えていて、顔を合わせたところ、「卒業してから年賀状の一枚も書かない」とか「そんな人間になって、何のために留学したのか」などと説教された。それも廊下で。私は、大学に入ってから、高校時代のどの教師にも年賀状を出したことはなく、特に彼女を避けていた訳ではなかったのだが。ただ、3年のときのクラス担任でもあった彼女については、生徒の立場から疑問に思うことも多かった。どちらにしても、私の言い分に彼女は興味がないことは、明らかだった。

そんなに英語教師バッシングするなよ~。文科省がオーケーした教科書の内容を生徒に理解させるのが公立高校英語教師の仕事なんだから、それ以外は勘弁?!しかし、そうなると、今度は教科書こそ重要になってくる。そこでまたスキャンダルでございます。

最近、複数の出版社が、文科省による承認前の教科書を学校教師に見せ、金銭授受を行っていた、というテレビのニュースを観た。新聞記事も読んでみたが、教科書を見せたのは、編集に資するフィードバックを得る目的ではなく、似たり寄ったりの内容の教科書の中から「我が社の教科書を選んでね!」という根回しのためだったようだ。テレビニュースの画像は、私が購入して読んだのと同じ英語の教科書だった。これまでも書いたけれど、私はそれらの教科書に全然感心していない。昨年、最初は教科書はいらない、と書いたほどだ。

教科書にも頼れず、大学受験も変わらず、必要な法改正もなく、とまだまだ日本の英語教育は改善されそうにありません。でも、日本の英語教育を何とかしろ!という要求が全国各地の生徒や生徒の親から文科省に寄せられているという話も聞かない。自分の子供を本気でバイリンガルにしたい親は、インターナショナル・スクールへ通わせたり、海外の学校へ入学させたりするらしい。つまり、日本の公立校における英語教育には、今のところ生徒も親たちも期待していない、ということかもしれない。

2016年3月 英語教育とインターネット

前回、私が英語指導を受けた公立校の日本人英語教師たちが、「英語はあくまでコミュニケーションの手段だから、もともと英語で伝えたい内容が頭の中になければ勉強したって意味がない」と言っていた、と書いたが、私の場合、英語の授業が始まって間もなく、中学1年の2学期あたりには、当時ファンだった米国の映画俳優ロバート・レッドフォードにファンレターを書いていた。もう一人の映画好きのクラスメートは、ジャッキー・チェンのファンで、「返事来るかな~」とウキウキしながら筆記体で手紙を書き、それを見せ合って英語や内容をチェックしてから、雑誌に載っていたが海外のファンクラブの住所に発送した。2週間くらいしたある日、そのクラスメートの目がハートになっていた。「来たの~!返事」と彼女はジャッキーから来た手紙を見せてくれた。なんと英語と中国語の両方で書いてあった。私は「いいな~」と、自分にももうすぐ返事が来ることを期待し、その後も数回ファンレターを送ったが、結局レッドフォード氏から返事はなかった。ジャッキー・ファンの彼女は、「次は中国語で書く」と言って、中国語入門の本を買って勉強し始めた。返事が来なくても、辞書を調べながら英語の文章を書いた時のワクワクした気持ちは、今でもおぼえている。

あの頃は、文房具屋に行くと航空便用の封筒を売っていた。四辺に赤と青の斜線が入った、あれである。まずそれを買い、宛名の位置とか自分の住所の位置とかに気をつけながら手紙を完成させ、郵便局で重量を計ってもらい、発送した。送料は高かったけれど、それまで国内にしか手紙を出したことがなかったので、送るまでの経緯のすべてが楽しかった。

2014年9月の回で書いたけれど、あこがれのスターとコミュニケーションしたい!という単純な動機で外国語の勉強を始めるというのは珍しい話ではないと思う。今は、インターネットがあるので、例えば中学生が自分の好きな海外のスポーツ選手にメッセージを送りたいと思えば、一瞬にしてほとんど無料で送信することが可能だ。私たちが中学の頃にインターネットが存在したら、ジャッキー・ファンの彼女も私もメッセージを送りすぎてストーカー状態になっていたかもしれない。書いて、書いて書きまくり、さぞ英作文も上達しただろう。

2月18日の『ジャパン・タイムズ』紙に、カナダ出身のALTの女性が、愛媛の小学校(国立大学付属)でスカイプを使った英語の授業を成功させている、という記事が載っていた。日本語を勉強している海外の小学生たちと、英語を勉強している日本人の小学生がリアルタイムで異文化交流したり、外国人に対する態度や実践英語を学んだりしているそうだ。その記事によると、スカイプによるコミュニケーションを始めた当初、日本人の子供たちは黙って画面を見つめるばかりで、海外の小学生たちは、通信障害で画面が凍っているのかと思ってしまったそうだ。そこで彼女は、うなずいて肯定の意思表示をするなどの指導を子供たちにしたそうだ。彼女を監督する側の日本人教師たちは、彼女が子供たちに「海外の生徒たちと自分たちの共通点をさがす」ことを促していることが成功につながっている、と評価しているそうである。日本人教師は海外の人たちと自分たちとの違いに注目しがちなのだそうだ。

これは、小学校における英語教育の成功例なのだろうが、私のようにインターネットやコンピューターが無い時代に学校へ行った人間が読むと、いろいろ考えさせられる内容だ。まず、意外だったのは、おそらく毎日スマホや携帯電話を使っている子供たちが、学校で先生に機会を与えられるまで海外との通信をしなかった、ということ。私とジャッキー・ファンの友人なら、インターネット上で知り合った外国人とすぐにスカイプで話したがると思う。昔は海外ペンパルを募集するページが映画雑誌などに載っていて、好きな俳優が共通の相手に手紙を送ったりしたものだ。最近の小中学生は、毎日学校で顔を合わせているクラスメートと家に帰ってからもスマホで連絡を取っているそうだが、子供たちの視野の狭さに驚く。しかし、私たちのように、習い始めて間もない英語で積極的にコミュニケーションしたい、という子供が大勢いたら、現代の親や学校の先生にとっては頭痛の種になるだろう。英語が話せる、書ける、となると、インターネット上のさまざまな情報の閲覧や悪い大人との接触の可能性も格段アップするからだ。英語教師の責任は、かなり重そうね。あまり英語が流暢な生徒が増えない方がいい、なんて消極的になる先生や親も出てきたりして。

これは、私が社会人になってから、ネット上にチャットルームが登場した頃、二十数年前の経験だが、映画ファンの集まる米国ベースのサイトに登録してみた。ある時、テーマが映画の中の兵器や武器による爆撃や殺人についてで、私が「アメリカのように実際に最新鋭の兵器を大量に所有している国で作られる映画にそういうものが高い頻度で登場することは、それらが可能にする暴力や残虐を肯定しているようで、責任が重いと思う」というような意見を入力したところ、ある米国人のメンバーから、「このジャップの馬鹿野郎、無知の敗戦国のサル、黙れ!」というメッセージが即座に入力された。私は丁寧な言葉で自分の意見を説明し、「もしかすると、私にとって外国語である英語の短いメッセージで会話することに問題があったのかもしれません」と返信を入力したところ、数名のメンバーから、「あなたの英語には全く問題ありません。気にせずに!」という入力があった。私は、その会話を続けなかったが、数時間して、そのルームの責任者からメールが入り、「あなたが思慮深い態度で接し、売り言葉に買い言葉、と事態を悪化させなかったことに感謝します。暴言を吐くメンバーには注意をしました」ということだった。  子供たちの英語力を向上させ、インターネットで英語を使うことが日常化すれば、英語が支配する場、英語がリングア・フランカの場で、若いうちからさまざまな人に遭遇する。日本は、そういう状況への対応を子供たちにどうやって教えるのだろう。学校の英語の授業かな?

そんなことを書いているうちに、『インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ』紙に気になる記事が載っていた。アメリカではブロードバンド接続が自宅にない低所得世帯の子供たちが、オンラインでしなければならない学校の宿題や課題をこなすために、チェーンのコーヒーショップやWi-Fi通信のできる地域に停車しているスクールバスの中やなどで夜中まで勉強しなければならないのだそうだ。日本でも、今、子供の貧困の増加が問題になっている。パソコンやインターネット接続を持たない家庭の子供たちが今後増える可能性がある。

日本の英語教育では、最近、特に会話の習得のために、フィリピンなど海外の英語教師とパソコン上で授業をするオンライン授業が取り入れられつつあり、低い費用で成果を上げているということだが、オンライン重視の英語教育は、家庭でもアクセス可能な子供とそうでない子供の差を広げるおそれがあるということかもしれない。

外国人のALTが教室にいる理由って、やっぱり生身の人間とのやり取りの中で英語を学ぶため、というのが一番にあると思う。ネット上のコミュニケーションにはさまざまな問題がある。生徒たちが教室で先生との信頼関係に基づいて学習することの重要性が見失われないことを祈ろう。

2016年4月 米国大統領が話す英語

つい先日、CNNを観ていたら、ドナルド・トランプ共和党大統領候補の暴言を弁護する立場の女性が、英語の “pundit” [pʌndɪt](専門家、権威)という意味で [pʌndənt]と繰り返していた。これは、誰かが言ったその英単語の発音を彼女が聴き間違え、書いた文字として確認することなくそのまま使っているから、と推測できる。この単語は、普段から新聞に頻出し、今回の大統領選が始まってから、毎日のように The Japan Times紙とThe International New York Times紙上においても繰り返し使われている。彼女がアメリカで発行される新聞を毎日読んでいる人であれば、自分の間違いに気づいたはずだ。それに、あらゆる新聞やテレビの報道をチェックするのが選挙の広報担当じゃないの?

誰でもことわざの言い間違い、漢字の読み間違いはよくあることだが、テレビで偉そうなことを言っている人が、言葉を知らないのは恥ずかしい。米国大統領の話す英語は世界の注目を浴びる。共和党のジョージ・W・ブッシュ元大統領の場合、“nuclear” [n(j)úːkliɚ] (核)という単語を常に[n(j)úːkjulɚ]と発音し、それが「もう一つの発音」として辞書に載り、今でもその発音をする人がメディアにも大勢いる。米国大統領が単語を誤って発音すると、大統領は「勉強が足りない」と指摘されるのではなく、社会はそれを肯定するようだ。同時多発テロのときも、“Bring’em on!”(〔悪者たちに〕「かかって来い!」)と、カウボーイのような口調で言ったことが有名になった。現職のオバマ大統領が2008年に初当選したときは、彼の演説スタイルがもてはやされ、日本の英会話学校が彼の演説ビデオを教材に使ったりした。あれから8年。オバマ大統領が初当選したときの熱狂的な支持者には、「裏切られた」と感じている人も多いそうだ。「核兵器をなくす努力をする」と言っただけでノーベル平和賞をもらった人なのだから、よほど話し方に説得力があるのでしょうが、英語教育の手本とするのは正しいのかしら?どちらにせよ、米国大統領の話す英語が世界から肯定される傾向にあることは否めない。今年の大統領選で当選する新しい大統領の話す英語も、同じように扱われるのだろうか。